道真公が人なのに天神と呼ばれるのは、
何が根拠とされているのでしょう。
道真公が藤原時平の讒言にあった後、
冤罪を灌ぐため天拝山で祈念した神は
聖天であったとされています。
道真公は熱心な大聖歓喜自在天の信者で、
そこから天満大自在天神とされた事から、
天神と呼ばれる様になったとされます。
天神様の本地仏は十一面観音ですが、
聖天と十一面観音に関しては、
南朝の記事で散々書いて来ましたね。
聖天はインドではガネーシャと呼ばれ
聖天のイメージとはかなり違いますが、
ヒンドゥー教に取り込まれる以前の
聖天信仰が徐福により持ち込まれ、
継承されてきた説は書いておきました。
いわゆるヘレニズムで習合した神々で、
自己修養の仏教に神々が関わるのは、
アショーカ王による所が大きいですね。
十一面観音も白山と関係付けられますが、
古戸地区の花祭はシラヤマでの祭祀の後に
開始される程に重要な神とされています。
花祭では鬼神が登場しますが、
道真公は鬼門や牛と関係付けられ、
角を生やした鬼神が関係するなら、
彼が大宰府で死亡したとするのは、
左遷が理由ではなかったのでしょう。
志多羅神上洛事件も天神の神輿以外に
八面神なども登場していますが、
八面も先住民族祭祀との関係が深く、
安曇野の八面大王が思い浮かびます。
彼が左遷されて死亡し怨霊とされた話は
時代背景からの洗い直しが必要であり、
先住民族祭祀と関係付けられた背後に
何があったかを知る事が出来なければ、
彼の死も無価値なものとして扱われます。
彼の大宰府での死去の理由とは、
一体何だったのでしょうか。