阿衝事件と菅原道真

宇多天皇は即位した後に、
藤原氏の影響を排するために、
光孝天皇の関白・藤原基経を
阿衡(あこう)として働くよう
文を送ったとされています。

阿衡は摂政・関白の異称ですが、
実務に関与しない名誉職的な扱いで、
これに激怒した基経は政務を拒み、
自宅へ籠り政務が半年も滞ります。

その文を伝えた広相を処分する事で
この事態を解決しようとしますが、
これでも納得しない基経に対し、
菅原道真が説得をした事により、
職務に復帰したと伝えられます。

阿衡事件と呼ばれるこの事件から
宇多天皇は菅原道真を尊重し、
藤原基経没後に菅原道真を
重用したとされていますね。

道真公は醍醐天皇にも仕えますが、
阿衡事件を切っ掛けにして
摂関政治の藤原氏の影響力排除を
宇多法皇が目論む事になった事で、
醍醐天皇を抱き込んだ摂関家が
道真公排除に動いたとされます。

菅原道真公の政界での立ち位置は、
藤原氏排除の目的で抜擢された
危険な綱渡りが要求されるもので、
後に大宰府左遷に繋がる要素を、
この時点から内包させている事が
既存の歴史で伝えられています。

となると道真公に纏わる伝承は
摂関家に都合良く書き換えられ、
重要な部分が隠蔽された可能性を
考慮せざるを得なくなります。

藤原基経の墓に参拝しましたが、
この周辺に捏造が存在する事を
強く感じさせる要素があり、
色々と調べる羽目になりました。

ここで問題になるのが醍醐天皇が
宇多上皇との意見の相違から
藤原基経側に離反した事により、
宇多上皇の信任の厚い道真公の
大宰府左遷に繋がった話です。

この時代は唐との関係が語られず、
道真公が遣唐使を廃止した程度しか、
アジア情勢が触れられていません。

しかし視野を広げる事により、
全く違った天神信仰の本質が
浮かび上がって来るだけの、
大規模な変化が存在しています。

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