耶律阿保機

耶律阿保機(やりつあぼき)は
916年に唐滅亡後の混乱に乗じて
自らの国を建てて遼と号し、
契丹国皇帝となったとされます。

彼は天皇帝、天皇王の称号も持ち、
日本との関わりに関しての妄想を
掻き立てる部分がありますね。

契丹は勢力を拡大していき、
北の女真や西の西夏・ウイグル・
突厥諸部・沙陀諸部を服属させ、
東の渤海や西の烏古を滅ぼし、
広大な国家を作っていますが、
日本に記述が残されていません。

契丹は渤海国の西に位置しており、
菅原道真公は渤海国の使節と
漢詩のやり取りをしているので、
認知がなかった事はありえません。

日本と渤海国との友好関係は、
延長五年(927)に唐の滅亡により
渤海国で内紛が勃発してしまい、
契丹国から攻め込まれる事で、
通交が絶える事になります。

927年に最後に来た渤海国の使節も
契丹国の使者だったとも言われ、
アジア動乱の時期であった事は
十分に納得出来るでしょう。

日本にこの影響がなかったのかは、
文献にはほぼ記されていません。

道真公は大宰府に左遷から二年後に
延喜三年(903)に大宰府で死去し、
五年後の藤原菅根の病死を皮切りに
醍醐天皇の至るまで何人も死に、
道真の怨霊の仕業とされた事から、
天暦元年(947)に神として祀られます。

平将門の乱は935年~940年の出来事で、
志多羅神上洛事件は天慶八年(945)、
道真公が神として祀られる前に、
これらの出来事が起きた事になります。

人から大怨霊となり神とされた経緯に
歴史から隠された領域があるのは、
ほぼ間違いない事なのでしょう。

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