二所朝廷

薬子の変が終わった後、
嵯峨天皇と淳和天皇の
二つの系統が交互に皇位を
継承してきたとされます。

淳和天皇が崩御した後に
仁明天皇が即位すると、
権中納言の藤原良房が、
近習の臣とされています。

藤原諸嗣は延暦二十一年(802)に
当時では異例の二十九歳で参議に、
天長三年(826)に議政官の筆頭の
国政の長老になる昇進をしています。

仁明朝は大きな転換点とされ、
ここから宇多天皇周辺まで、
藤原氏が権力を牛耳る流れが
出てきたとされていますが、
様々に見直す所が出て来ます。

問題になるのが二所朝廷の頃から
自ら指揮をとっていた天皇が
藤原氏の傀儡の立場に落ちた事で、
天皇が強い王から情けない存在へ
格下げされて来た事にあります。

この二所朝庭は御家騒動でなく、
先住民族側に戦争を仕掛けた事を
隠蔽した可能性が浮上しますね。

となると藤原氏に手駒にされた
情けない天皇の本来の姿は、
先住民族側の王を悪く言う
隠蔽工作の線が濃くなります。

この線での説を提唱出来るのは
私以外にはいない現状なので、
新たな研究の流れを出すためにも
書く必要を感じている所です。

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