橘逸勢は空海と一共に、
遣唐使に任命されています。
橘逸勢は承和の変の首謀者と
伝えられている人物ですが、
承和の遣唐使は取り扱いに
注意すべき問題があります。
橘逸勢や空海はこれより前の
遣唐使になっていましたが、
伝えられる内容の傾向性が
ここで変化している事が、
指摘されているようですね。
奈良時代には遺唐使の主眼が
国家制度の習得・人材の養成で、
承和の遣唐使は音楽や密教修法が
主眼となったと語られています。
佐伯有清氏は遣唐使強行の理由に、
天台・真言の僧侶たちによる
入唐求法の意欲が高いのに反し、
外交使使節としての意義が
低下した事を挙げたとされます。
この時代は博多に来航する
新羅商人による交流・貿易が
拡大していた事によって、
国家間の使節往来の比重が
下がったとされていますね。
しかし遣唐使派遣は甚大な国費が
要求される一大国家事業であり、
「霊厳寺和尚請来法門道具等目録」
「常暁和尚請来目録」等の入唐僧の
将来品の目録が作成され献上されます。
これらの意思決定は当時の宮廷、
特に仁明天皇が推進したそうです。
入唐僧に託して真言僧・実恵が
長安青龍寺の僧・義明に宛てた書状は
『弘法大師御伝』下に収録されており、
外護の大檀主は今上陛下、
北面の后宮及び大納言二品藤原朝臣、
右大弁四品和気朝臣なり
と真言宗の支援者に仁明天皇を始め
藤原三守・橘嘉智子・和気真綱らが
続いていた事が読み取れます。
ここで和気真綱が登場していますが、
永岡・平安京遷都や道鏡事件に関わる
和気清麻呂に連なる人物が登場する
非常に厄介な話となっています。
道鏡と平安京遷都の本を書こうと
資料を纏めていたのですが、
この和気清麻呂が余りに面倒で、
執筆が滞っている状態にあります。
と言う事でどこまで掘り下げるか
微妙な部分が存在していますが、
やるなら本でがっつりと書く
感じにはなりそうですね。