円仁による仏教弾圧の記述は数多く、
会昌の廃仏が如何に酷かったかを
後世に印象着けるのに役立っています。
武宗は尼僧院で美しい女道士を見つけ、
彼女に絹一千巻を与えただけでなく、
役人達に命じて立派に再建させ、
皇帝の青銅の像を安置させたそうです。
武宗教は朝廷の学者や有識者にまで
道教の信仰を強要したとされますが、
誰も信奉せず民衆も冷たい態度で
接した事を書き残しています。
功徳使が勅命で、
仏教や道教の諸寺院に経を読み、
雨を祈るよう通達したときは、
いずれも殆ど雨が降らなかったが、
たまたま反応があり雨が降ると、
道士たちだけが褒美を受け取り、
仏教の僧尼には何も与えられず、
うち捨て置かれた。
市民たちはあざ笑って言った。
雨を祈るときは
仏教僧をわずらわせながら、
褒美を与えるときには
道士たちのみに与えると。
武宗は仏教の諸寺院に命じて
二~三日毎に訪問する際に
過大な準備をさせたそうです。
腰かけ、ござ、敷物を用意させ、
塔に花模様のカーテンを懸けさせ、
茶椀や茶卓や皿や椅子を持ち出させ、
一回の旅行に四、五百連の銅貨が
費消されたと記しています。
皇帝が洛陽に行く事を決めた時、
側近が行く事を反対する忠告をすれば、
刑に処せられ家族は一掃される事を
勅語で発したと伝えています。
仏教弾圧に反対した皇太后を毒殺し、
彼の継母にあたる別の皇太后も、
申し出を拒絶され自ら弓矢で
殺した噂も書き残していますね。
余りにも極端な記述ばかりで、
世界に名だたる大帝国の皇帝が
愚劣に過ぎると思われますが、
他の政策もマトモでは無い事が
示されている訳ではありません。
あくまで廃仏に関する所のみ
限定して記述されていますが、
武宗は他領域でも愚かな政策を
取った痕跡があるのでしょうか。