雄略天皇はヤマトタケルか3

景行天皇二十七年(AD14)二月二十七日、
北陸および東方諸国の視察旅行を終え帰国した大臣・武内宿禰が
日高見国の報告した事が記されています。

「東夷之中、有日高見國、其國人男女、並椎結文身、
爲人勇悍、是總曰蝦夷、亦土地沃壊而曠之。撃可取也。」
「東の未開の地に日高見国がある。
その国の人は男女とも髪を結い分け、体に入れ墨を施し、
勇敢で強い、これすべて蝦夷という。
また土地は肥沃で広大、攻撃し奪い取るべきである。」

日高見国は、「並相盗略、亦山有邪神、郊有姦鬼」と、
人も神も邪な国として報告されています。
山に邪神がいるとは古代の山岳信仰の事なのでしょう。
筑波山も御神体山として信仰されていました。

征伐に向かうヤマトタケルは英雄のイメージとは違い、
相手が風呂に入っている時に抜けない刀とすりかえる、
女装して殺害する等、非道な記述がなされていますが
日本書紀ではヤマトタケルはクマソタケルを倒した方法で
勝手に出雲の神宝を見せた弟を出雲振根が殺害しています。

ヤマトタケルはイズモタケルを倒して
タケルの名をもらったとされているのですが、
ヤマトタケルが非道な行いをしたとするのは
史実であったのでしょうか。

雄略天皇も非道な天皇として記述されていますが、
非道な記述と有徳な記述の双方がなされ、
謎の記述も数多くある特殊な天皇とされています。
浦島太郎の伝承に触れられているのもこの天皇の条で、
神秘的な記述も多くあります。

ヤマトタケルと雄略天皇には共通項が数多く見受けられます。
平将門の深層には詳しく書きましたが、
ここでも少しみてみましょう。

伊勢内宮は豊鍬入姫命と倭姫により元伊勢と呼ばれる地を転々としつつ
十一代・垂仁天皇の御世に現在の地に遷座したとされますが、
二十一代・雄略天皇の御世に外宮は丹波から直接やってきたとされます。

ヤマトタケルは卑怯な手を用いクマソタケルやイズモタケルに勝ちますが、
雄略天皇はクーデターと思しき王権の略奪を行います。

古事記では葛城の一言主神が雄略天皇と全く同じ姿で登場します。
一言主神は醜い姿で役小角に呪縛されたと伝えられていますが、
「役行者絵巻」ではこの神を大物主・ニギハヤヒの別名としています。

日本書記では景行天皇がヤマトタケルを
「即ち知りぬ、形は我が子、実は神人にますことを」と言い、
雄略天皇は「天皇産れまして、神しき光、殿に満ちる」と記されていて、
双方が神人として扱われています。

『常陸国風土記』はヤマトタケルを倭武の天皇と記しますが、
悪者とされた雄略天皇こそヤマト王権の王・ヤマトタケルであり、
雄略天皇は倭王・武の事であったのでしょうか。

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