仏教弾圧か一神教弾圧か

会昌の廃仏は仏教以外にも、
武則天の保護した三つの
一神教も弾圧されています。

円仁は八四三年四月の日記に、

勅命が発せられて、
国中のマニ教の司祭は
殺されるよう命ぜられた。
彼らの頭は剃られ、
身には仏教の袈裟を着けられ、
あたかも仏教の沙門たちが
殺された様に見せかけた。
マニ教の司祭たちは、
ウイグル族によって
高く尊敬されている。

と記している事を考えると、
円仁もマニ教の信奉者との
関係が暗示されていますね。

ウイグルは唐の最も忠実な
同盟国であったものの、
この頃は唐に敵対して
侵略したとされています。

円仁はこの侵略について、
一年以上も前に聞いており、
長安でウイグル人数百人が
処刑された事を記しています。

円仁は山東で武宗について
最初に聞いた話を記述し、
新帝が王座に上ると、
先帝の時にかわいがられた
都の四千人以上を殺したと、
悪逆無道振りを伝えます。

武宗が廃仏を始めた頃、
弾圧対象となっていたのは
仏教ではなくマニ教であり、
この線で見るか否かによって
全く違う解釈が導かれます。

武則天の保護した大雲寺も
仏教ではなくマニ教寺院で、
国分寺のモデルとなったと
言われている事からしても、
円仁の日記に疑念が生じます。

この後にゾロアスター教と
ネストリウス派キリスト教も
弾圧対象となったとされ、
安史の乱からの流れを
感じさせる物となります。

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