安史の乱を平定した功労者である
僕固懐恩(ぼっこかいおん)は、
764年に乱を起こしています。
彼はウイグルの属する九姓鉄勒の
僕固部出身とされており、
牟羽可汗(ぼぼうかがん)に
娘を娶らせていた事から
唐の宦官達に内通を疑われ、
怒って反乱を起こしたそうです。
懐恩はチベット軍数万人を招き
奉天県へ進軍するも防がれ、
翌年秋にはウイグル・チベット・
吐谷渾・党項タングート・奴剌の
援軍二十数万で陝西盆地西部に攻め、
唐は再び滅亡の危機に瀕します。
懐恩が病死した事で連合軍は撤退、
唐は再び滅亡の危機を脱しますが、
安史の余党の旧地位を保証した
疑をかけられたとされています。
762年に玄宗が死ぬと史朝義は
ウイグルに長安を奪う話を持ちかけ、
牟羽可汗が大軍を長安に送った時に、
彼を説得したのが僕固懐恩の娘と
推定されているようです。
牟羽可汗は762年に僕固懐恩の娘を娶り、
唐と一応の和親を結んでいましたが、
ウイグル人は唐に対して横暴な態度で
掠奪や凌辱を頻繁に行っていたとされ、
唐が抑え込もうとしたとされています。
この乱に加担した遂に吐蕃と回紇は
マニ教が蔓延っていたとされるので、
唐からマニ教を排除した玄宗に対して
恨みを持っていたのは確かでしょう。