宝応元年(762)八月に
牟羽可汗が唐へ侵攻した際、
マニ教を受け入れた事が、
後の第8代保義可汗が建てた
『カラ・バルガスン碑文』に
ソグド語で記されています。
今、神である王□□がこの手□、
すべての火を燃やす宗教□、
神であるマール・マーニーの宗教を受け入れ□。
それから神である王は□と宗教を受け入れた。
ウイグルでも一神教の神を
王権の根拠とする教えが
広まっていた事が分かりますね。
ただこれには反対派も存在し、
大暦十四年(779)に起こされた
頓莫賀達干(トン・バガ・タルカン)の
クーデターによりソグド人が弾圧され、
マニ教は暫く沈静化していますが、
第七代懐信可汗(在位795~ 805年)の
治世の元で国教化したそうです。
805年と言えば会昌の廃仏の
35年程前の話になりますが、
唐に圧力を奮ったウイグルに
ソグド人勢力が帰り咲いたなら、
再び大規模な戦争が起こされる
危険な火種となった事でしょう。
七世紀から八世紀初頭までに、
唐朝統治下のタリム盆地東南の
ロブラノールにマニ教聖職者の
部落が存在したとされており、
吐蕃と交流した事が分かっています。
チベットにマニ教が入ったのは
この時期からとも言われますが、
回鶻(ウイグル)銭と呼ばれる
金融に纏わる内容を見てみると、
ソグドマネーだったとされます。
宗教的な信仰の変遷ではなく、
ベニスの商人等のユダヤ人が
金融で力を伸ばしたのと同じ
金による支配が裏で行われ、
取り込まれた線もありますね。