回紇は唐を荒らした安史の乱で
唐を助けた功績をかさにきて
長安で好き勝手が行えたものの、
黠戛斯(キルギス)に攻められ
本拠地を失ったとされます。
黠戛斯は外蒙の西北にある、
唐努烏梁海地方の大湖である
庫蘇古尔湖(スズルグル)西南に
居住していた民族とされますが、
回紇も吐蕃も黠戛期が勇敢すぎて
支配しなかったとされています。
840年に回紇はキルギスと戦争し、
外蒙を破棄して各地に分散します。
直接唐の辺境辺りに来たのは
温没斯を首領とする一派と、
鳥介特勤を押し立て回紇の勢力を
回復しようとする一派とである。
この回紇の二派は互に相争い、
愠没斯は唐に降ったものの、
烏介一派は唐に種々の要求を出し、
帰化城に根拠地を作る要請をします。
唐の朝廷では種々の議論が起こり、
李徳裕は全ての要求を拒絶します。
『会昌ー品集』巻二に李徳裕の
「幽州紀聖功碑銘」があり、
回紇が長安の都で壮麗な
摩尼教の寺院を建立して
政治勢力を築いており、
唐に悪害を垂れ流しつつも
膨大な支給を受けていると、
その理由を述べていますね。
李徳裕は会昌の廃仏を行った
首謀者とされていますが、
廃仏はマニ教を対象として
始められたとされており、
正統性を見る事が出来ます。
未だ回紇の残党を討伐するだけの
力を持ち合わせていないものの、
彼らの侵略を排除する事には
成功したとされています。
唐が黠戛斯と友好関係を保つ事で
回紇の残党は黠戛期に征服されていき、
中国の辺境から姿を消したそうです。
ただこの回紇勢力は部族の中心でなく、
中心勢力は新疆地方の高昌に入り、
ここを根拠に吐蕃の勢力を駆逐し、
トルキスタンの源となったと
見なされているようです。
彼らはマニ教から回教に転向し、
アジアに大きな悪害をもたらした
マニ教は影を潜める事になりますが、
日本にもその影響は及んでいます。
日本に入ってきたマニ教が
どう動いたのかについては、
行基の本に少し触れています。
行基の時代に勢力を弱めたものの、
その後の動向が問題となりますね。