唐の悩みの種とされていた
回紇(ウイグル)と
吐蕃(チベット)ですが、
回紇は唐に直接にたかった物の、
吐蕃は中国の内乱を利用して
領土を東南に拡げていきます
隴右の節度使であった哥舒翰は
積極的に吐蕃を攻めた事により
唐の領土の開拓に貢献しますが、
安禄山の反落で生擒られた事で
隴右の旧哥舒翰部下が動揺し、
唐を恨んで吐蕃と通じます。
これで吐蕃は容易に東北方面に
侵出する事が可能となり、
甘粛省の大部分を勢力下に
置いた事が伝えられています。
玄宗以前の唐と吐蕃との交渉は
甘粛省で行われる事が多く、
この地方の勢力地図の変化は
大きな影響力を持っていました。
安史の乱の後にチベットが
著しく優勢になった事により、
吐蕃が唐に南方四川方面から
圧迫を加えて来た事により、
このエリアが吐蕃の勢力下に
帰属する事になっていきます。
吐蕃はこれを足掛かりにして
雲南地方に勢力を伸ばし、
唐から独立した南詔国も
一時は吐蕃に帰属し、
一大勢力を築いています。
会昌の廃仏は回紇と吐蕃が
衰退した事で始められたと
伝えられてはいますが、
この周辺には謎があります。