チベットの衰退

唐に対して優越であった
回紇が瓦解していくと、
吐蕃も衰退が著しくなり、
安史の乱の後からの関係を
修復する機会が訪れます。

821年に成立した条約文は、
石に彫られて今現在も、
サラの地に残されています。

この条約の成立した頃は
吐審は仏教が隆盛していく反面、
国王の勢力がしだいに弱まり、
中国の史料は会昌二年(842)に
従来の国王の系統が絶えて
王妃の家から国王が擁立され、
軍将達が攻争を起こしたとします。

当時甘粛の西方で吐蕃内部に
大紛争が起こった事により、
この地方の吐蕃勢力が瓦解し、
再び甘粛を唐の勢力下に
置く事が出来たと言われます。

会昌の廃仏の首謀者とされる
李徳裕の外交政策によって、
回紇・吐蕃勢力の瓦解による
紛擾の危機を脱しています。

会昌の廃仏の実行犯とされる
李徳裕の優れた功績によって
唐が窮地を救われており、
彼の評価が気になります。

既得権保持に動いた劣悪な
政治家とされていたのは、
敵対勢力の流した話でしょう。

功罪を公正に語らずに、
一方的な悪者にするのは、
対抗勢力の劣悪さを
感じさせるに十分です。

唐を悩ませていた二大勢力が
衰退した事と廃仏との関係に、
隠された領域があるのでしょう。

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