唐・吐蕃間の会盟を結んだ
ウイグルのその後の動向は、
どうなっていたのでしょうか。
ウイグルがキルギスに攻め込まれて
分裂したとされる840年の前年に、
事件が起こった事が知られています。
『旧唐書』廻紇伝を見ると、
大臣の安允合が王族の柴草と
簒奪計画を企てたものの、
カガン(王)に処刑されます。
翌年に安允合派の大臣・掘羅勿が
これを恨んで反落を起こしますが、
『資治通鑑』「唐紀六十二」には
沙陀部の長・朱邪赤心の兵を借り、
カガンは負けて自殺したとあります。
この後にウイグルがキルギスに
攻め込まれて分裂したとされ、
ウイグルの圧力が無くなった事で、
会昌の廃仏が始まったとされます。
ウイグルとの同盟が破られたのは
カガンが反乱で死んだ事に因るのか、
同盟が反乱で破棄されたのであれば、
軍事行動も已む無しでしょう。
一説によると安允合はソグド系で、
一神教勢力の方針に反するカガンを
排除しようとしたのであれば、
三国会盟がソグド人勢力により
反故にされた事になります。
会昌の廃仏周辺の動きを見ると、
三国を巻き込んだ一神教勢力の
大規模な動きが見えて来ます。