1月3日は播磨国の調査に
行く予定だったのですが、
天気予報で降水量3mmと
出ていた事から計画変更で
京都を見てまわりました。
橘逸勢の話をするにあたり、
小野篁(おののたかむら)も
キーパーソンの一人なので、
書く前に話をしに行こうと、
六道珍皇寺に寄りました。

最近は小野篁が小説で書かれ
安倍晴明より人気だそうで、
晴明も実際に活躍したのは
40代以降とされているので、
妖艶な貴公子のイメージが
崩れて来ているのでしょうか。
小野篁は小野妹子の末裔であり、
夜は閻魔大王の元に行って
仕事をしていたと言う伝承が
残されているのがこの寺です。
篁の墓に寄って来ましたが、
何と紫式部と共に葬られ、
墓も連結されていると言う
謎過ぎる話になっています。

しかも墓地にはこの二人の
墓しか存在していないので、
歴史の闇が存在してるのは
ほぼ明らかなのでしょう。
紫式部と同期の清少納言は
墓地が選定されておらず、
参拝が不可能な状態ですが、
宮中文学に携わった二人に
大きな謎が存在しています。
この二人は高名な一条天皇の
二人の后に仕えていたので、
ライバル関係と捉えられ、
紫式部が清少納言の悪口を
書いた事が知られています。
紫式部は藤原道長サイドの
藤原彰子の女房とされ、
清少納言は藤原伊周の妹の
定子に仕えたとされます。
更に問題なのがこの時代が
安倍晴明の時代と重なり、
安倍晴明と共に修行をした
花山天皇に矢を放ったのが、
この藤原伊周とされています。
これで定子の立場は苦しくなり、
天皇の子を身籠っていたのに
宮廷を出て出家する事になり、
一条天皇が定子を呼び戻すも、
道長が娘の彰子を内入させ、
24歳で他界したそうです。
定子の父・藤原道盛の死去で
藤原一族の内部抗争が勃発し、
中関白家が没落した事が
伝えられてはいるのですが、
この時代の歴史が抜本的に
違っている可能性があります。
紫式部が宮仕えをした時期は、
清少納言が辞めた1000年から
6~7年ほど後の話とされるので、
悪口を書いた話もどこまでが
本当なのかは分かりません。
この時代の貴族のイメージは
宮中文学を元にした物が多く、
ここが崩れれば平安中期が
根本的に覆えされる可能性が
存在している状況ですね。
そしてこの謎は艮の金神の
根幹にも関わって来ます。
ここの部分は研究成果が
不十分だと本の中には
書かない可能性があり、
取り敢えず有料記事で
アップをしておきます。