十世紀中頃に編纂された『旧唐書』は
会昌の廃仏の最初の公的記録ですが、
仏教弾圧は少ししか触れていません。
後世に弾圧と呼ばれているものの、
仏教寺院の一大破壊が行われ、
僧尼が還俗させられたとだけ
記してあるに止まっています。
十一世紀中頃の『新唐書』には、
更に簡単な記述となっており、
これが後世に酷い内容であったと
語られるようになったのは、
円仁が日記の記銶によります。
『旧唐書は』マニ教への弾圧は
844年まで記述はありませんが、
円仁の日記には842年の段階で、
記述されている部分が存在します。
しかし円仁の記述にはないものの、
寺で使われていた奴隸達を隠したり、
買ったりすることを禁ずる処置や、
仏像や釣り鐘から得られた銅を
国家の鍀造所に割り当てたり、
鉄を農具の製作にふり向けて、
金銀翡翠を国庫に納めています。
寺が奴隷を買って隠していた事に
円仁が触れていない背景には、
良からぬ物を感じさせますね。
彼が長安で仏教を修行する間に
廃仏に遭遇したと言う話には、
検討しなければいけない問題が
幾つも存在している状態です。