円仁と張宝高

新羅の張宝高は841年の段階で、
清海鎮(全羅南迫莞島郡)を拠点に
山東半島、黄海、対馬海峡に活躍し、
後に新羅の王位争いに介入して
神武王を擁立したとされます。

円仁の日記には天長元年(824)に
張大使が来日した事が記されますが、
清海鎮大使であった張宝高を指す
可能性が提唱されていますね。

しかし彼は大宰府で貢ぎ物を
返却されたと伝えられており、
新羅と国交断絶をしていたなら、
この周辺に矛盾が出てきます。

円仁は張宝高の拠点の山東半島で
新羅コロニーの支援を受けており、
張宝高が建てた赤山法華院に滞在し、
帰国後に赤山禅院を建立しています。

この赤山禅院は安倍晴明の
陰陽道とも関係しますが、
最悪の祟り神と言われる
艮の金神とも関わります。

彼は遣唐使の帰国にも尽力し、
円仁は天皇やその周囲の人達に
灌頂したとされているので、
日本国の大恩人となります。

大宰府で貢ぎ物が返却されず
国交が存在していたとすれば、
文室田麻呂が密貿易をした話は
捏造であった事になります。

となると彼が反乱を企てた話は、
新羅と何らかの関係が存在する
可能性が高くなって来ますね。

新羅の皇位継承問題に関与した
張宝高の伝承を見ていると、
日本の皇位継承問題に関与した
橘逸勢を思い起こさせます。

これら二つに相関性は
存在するのでしょうか。

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