新羅の張宝高は841年の段階で、
清海鎮(全羅南迫莞島郡)を拠点に
山東半島、黄海、対馬海峡に活躍し、
後に新羅の王位争いに介入して
神武王を擁立したとされます。
円仁の日記には天長元年(824)に
張大使が来日した事が記されますが、
清海鎮大使であった張宝高を指す
可能性が提唱されていますね。
しかし彼は大宰府で貢ぎ物を
返却されたと伝えられており、
新羅と国交断絶をしていたなら、
この周辺に矛盾が出てきます。
円仁は張宝高の拠点の山東半島で
新羅コロニーの支援を受けており、
張宝高が建てた赤山法華院に滞在し、
帰国後に赤山禅院を建立しています。
この赤山禅院は安倍晴明の
陰陽道とも関係しますが、
最悪の祟り神と言われる
艮の金神とも関わります。
![](https://far-east-alexandria.com/wp-content/uploads/2022/08/IMG_20220815_131352-1024x768.jpg)
彼は遣唐使の帰国にも尽力し、
円仁は天皇やその周囲の人達に
灌頂したとされているので、
日本国の大恩人となります。
大宰府で貢ぎ物が返却されず
国交が存在していたとすれば、
文室田麻呂が密貿易をした話は
捏造であった事になります。
となると彼が反乱を企てた話は、
新羅と何らかの関係が存在する
可能性が高くなって来ますね。
新羅の皇位継承問題に関与した
張宝高の伝承を見ていると、
日本の皇位継承問題に関与した
橘逸勢を思い起こさせます。
これら二つに相関性は
存在するのでしょうか。