桓武天皇が平安京遷都をしたのは、
堕落した南都仏教を廃除する
目的があったと言われています。
橘諸兄は葛城王と呼ばれており、
朝廷で活躍したとされますが、
朝廷側とは別の勢力として、
行基と共に動いていた説を、
行基の本に書いておきました。
大仏建立に反対する橘奈良麻呂も
内乱ではなく先住民との抗争で、
東大寺大仏はキリストやミトラの
一神教の呪術的な神像であり、
行基と関係ない事も書きました。
南都(奈良)仏教の堕落は、
行基側の修験道が平城京を
押さえた事に繋がる話で、
平城天皇側との戦いも、
宗教戦争の様相を呈します。
安史の乱に加担し敗けた朝廷が
長岡京に拠点を移した後は、
先住民が奈良の地を押さえて
修験道を復興させていたなら、
南都仏教は行基の修験道です。
平城京が先住民に占拠され、
これと戦い追いやった事を
平城天皇が薬子に唆された
薬子の乱として隠蔽したなら、
一本筋が通る話となります。
南都仏教が修験道であれば
雑教の系統に属するので、
これを別の信仰に塗り替える
必然性が存在したとすれば、
真言・天台密教の隆盛にも
説明がつけられます。
唐における密教の隆盛は、
かの玄宗皇帝が安史の乱で
加持祈祷を依頼した事に
関わったとされています。
玄宗は日本が仏教のみで
道教を学ばない事に対して
懸念を持っていたとされ、
安史の乱で敗戦した日本が
唐とどう関わったかにも、
メスを入れる必要があります。