空海と佐伯院

今毛人は佐伯院(さえきいん)という
私寺を建造した事が知られています。

地方から子弟を集めて宿泊させ、
人材の育成に貢献したとされますが、
寺と言っても教育機関であれば、
イメージが変わるでしょう。

古代中国本来の寺は政祭一致の
行政機関であったとされますが、
時期的に行基の流れを汲んでいる
可能性は相応にありますね。

平安京遷都で南都仏教の堕落から
決別したと言われてはいますが、
佐伯院を見ると堕落の気配は
全く感じさせてはいません。

南都とは平城京の事ですが、
当時の平城京がどうなったか
詳しく知りたいのであれば、
行基の本を読んで下さい。

15歳の空海もここに入学して
勉学に励んだとされますが、
南都仏教であれば行基系の
修験道寺院であった線が
非常に濃い物となります。

空海の修行した大安寺も
奈良の寺院ではありますが、
ここにも結構な謎があり、
調査が必読なところです。

空海の山岳修行や公共工事は、
行基に連なる土師氏の協力が
あっての事だった可能性も、
相応に高そうではあります。

空海が仏教に関わったのは、
修験道寺院で勉学に励み、
カリキュラムの中に勉学と
修験道が混雑していた事が
理由だったのでしょうか。

政治家であった橘諸兄も
行基と共に行動しており、
修験にも関係していました。

政祭一致の古代王朝では、
学問のみならず密教も修し、
神仏とコンタクトを取れる
霊能力を獲得する事が、
重視されていらのでしょう。

土木であれば地霊との
コンタクトも必須となり、
東洋医学で気をみる様に、
竜脈や地の気を読む技術が
必要とされたのでしょう。

ここはアショーカ王の
碑文にも見られる事で、
三遠式銅鐸の本の中に
詳しく書きましたが、
この系統を継いでいれば、
その思想が伺えますね。

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