『倭姫命世記』の研究の出発となった
吉見幸和氏の説では鎌倉時代の初期に
『宝基本記』・三部の書・『倭姫命世記』
の順番に成立したと提唱されたとし、
この説が永く継承されて来たそうです。
近年の岡田米夫氏の研究を端緒に、
五部書の成立を鎌倉時代の中期、
文永・弘安の時期に作られたとする
見解が一般的になっていきます。
『宝基本記』・『倭姫命世記』・三部の書、
中でも『御鎮座本紀』が最後に記されたと
久保田収氏が提唱したとされていますが、
なかなか混沌とした状況の様ですね。
『倭姫命世紀』は元伊勢伝承を記し、
倭姫について記されていますが、
この周辺に嘘があると言う根拠は
既に何人も実地で見せているので、
やっと学術的に触れる段階まで
到達した感じになりますね。
私は特に『倭姫命世紀』が記されたのは、
平家が本来の神道を隠蔽する目的であった
可能性が高いと踏んでいる事もあって、
室町以降の可能性もあると踏んでいます。
『宝基本記』が最も早く作られたとする
見解が一致しているのを踏まえると、
この書が本来の伊勢神道の姿を色濃く
反映している可能性は高そうです。
伊勢神道が出たのが鎌倉時代でなく、
内宮・外宮が同格として扱われた
平安中期頃からの可能性があるなら、
鎌倉より前に成立していたとしても
おかしくない話にはなって来ます。
外宮の神を鬼神とし金神が登場するのが
本来の伊勢神道であったとするのなら、
円仁の赤山禅院の金神や陰陽道にも、
密接に関わっていた可能性があります。
となると国家祭祀にも通じていたのが
伊勢神道であった事になりかねず、
随分と本来の姿とは異なる形として
認識された事になりかねませんね。