空海が24歳の頃に『聾瞽指帰』を
書き上げてから唐に渡るまでの
七年間の記述が存在していません。
密教を短期間で学んだ後に、
死刑クラスの罪を背負って
帰国した話は空海の謎として
伝えられてはいるのですが、
これは史実なのでしょうか。
24歳で執筆した七年後に
唐に渡って修行をし、
2年で切り上げて帰ったと
伝えられてはいますが、
これだと余りに早すぎます。
空海が唐で10年もの間
修行していたとしても、
聾瞽指帰を書いた頃には
唐にいた事になります。
朝廷側で20年もの期間を
僧侶の留学に強いており、
違う王朝ならこれに準拠を
する必要性はないとしても、
空白の七年が気になります。
空海が渡唐したのが804年、
佐伯今毛人が大宰大弐に
任命されたのが779年とされ、
修行に20年必要とされたなら
時期的には関係しそうです。
空海がここで渡唐していれば、
帰国までに27年の修行期間が
存在していた事になりますが、
779年から数年後の遣唐使が
隠蔽された可能性もあります。
790年に今毛人が没した翌年、
空海が奈良の大学寮明経科に
入学したとされていますが、
空海の出生を774年とするのは
一つの説でしかありません。
平城天皇側の遣唐使として
唐と関係を持っていたなら、
嵯峨天皇側が隠蔽したい
歴史があったとしても、
不思議ではありません。
コメント
すみません会員では無いのですが横から失礼しますm(__)m。空海は唐に渡る前に山岳修行(雑密)や虚空蔵菩薩求聞持法で既に空の悟りを開いていた。ので唐ではインストールするだけの状態だったんだろうと、恵果阿闍梨の「貴方をずっとお待ちしていた」は悟ったもの同士の必然の会話だったのだろうと。しかも本物のマントラの響を得る為(全ては波動であると言うことに既に気づいていた故に真言密教としたと感じてます)に先にインド人の三蔵法師に本物のサンスクリットを学んだ後恵果に会いにいっている。全ては既に整っていた。恵果阿闍梨は教えると言うより伝えるだけだった。僕は2年で納得です。7年の修行なんて本気だとすぐなんだと思う上7年で仕上がっていた空海はやはり天才なんだと思います。イエスも空白の5、6年あったと思うし執着捨てる修行してる修行僧が記事つを残す方が珍しい話かなと思います。
比嘉さん、初めまして。
一通り研究し記事を書き終えてあるので、最後まで読んだ上でもう一度コメントをお願いします。