承和の変への疑問

承和の変は藤原氏による
他氏排斥の陰謀であり、
摂関政治成立の契機となった
歴史的転換点とする認識は、
昔から優位な見方とされます。

しかし、この時点での藤原氏は
既に優位な地位を確保したとし、
最近はこの説に否定的な見解が
幾つも提唱されています。

・橘逸勢・伴健卑らが実際に謀反を計画した
・良房と嘉智子が共謀して企てた
・良房一派が仕組んだ陰謀であった

良房は事件の六日前に右近衛大を兼任、
事件直後に大納言に任じられており、
良房の関与は認められはするものの、
当時は中納言程度であったので、
謀略の首謀者になれたかについて
疑問が提唱されているようです。

現状はどれも決定打に欠けており
決着の着いていない状況ですが、
私の研究はこのどれにも属さない
大規模な軍事抗争を内乱として
隠蔽しようとしたとする説なので、
抜本的に違う話になってきます。

私の説も複数の学説の中で
比較検討されてくれれば、
新たな流れは出そうですが、
飽海遺跡=初瀬朝倉宮説すら
複数の候補地の一つとして
研究されてはいませんね。

複数の候補地があるなら、
証明が云々以前の話なので、
候補地に入れ研究する事に、
何の問題もないはずです。

大勢が声を上げる声により、
明確な根拠の提供を求める
必要性が出て来るのであれば、
日本史も大幅な見直しが
可能となって来るでしょう。

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コメント

  1. ささき より:

    長谷も朝倉も、脈々と現存する地名で、お説を読みたくなる関西人は皆無でしょう。邪馬台国論争とは、わけが違います。

    • Katsuyoshi より:

      ささきさん初めまして。

      私は邪馬台国に関する絶対的な正解を提示したい訳ではなく、飽海遺跡の保護のために歴史研究の流れを出すために活動しています。

      初瀬朝倉宮の候補地が幾つもある中、朝倉川河口の飽海遺跡も候補地の一つに入れても良いのではないでしょうか。

      あくまで学術的な話なので、感情論ではなくデータと根拠を提示する事で、このジャンルの研究自体が進めば良いと考えています。

      西日本優位の歴史観がありますが、邪馬台国以前の徐福渡来の頃から始まる銅鐸時代では、近畿式銅鐸圏と三遠式銅鐸圏があり、同じ徐福王朝の関係であれば、敵対していなかった可能性すらあり、違った形での地域振興も可能であると考えます。

      心情的に読みたくないのであれば、近畿説が間違っている可能性があると思っていると言う事でしょうが、私の研究が拙稚であった場合は、学術的にボコボコにされて終わるでしょうから、自信があるのであれば心配なされる必要は無いと思います。