東西の阿保伝承

『新撰姓氏録』によると、
天皇が幼少の息速別命のために
伊賀国阿保村に宮室を築いて
阿保村を封邑として授け、
息速別命の子孫は764年に
阿保朝臣姓を賜わっています。

764年と言えば壬申の乱が
762年の出来事とされており、
一年半近い戦争だったと
伝えられている事から、
関係したのは確実でしょう。

阿保大神が大和三山の仲裁に
出向いた話とリンクしますが、
伊賀と言えば大和の東で、
出雲から出向いたなら西側の
兵庫県と言う事になるなら、
この周辺は謎が残ります。

壬申の乱が侵略戦争であった事は
私の研究で明示している話ですが、
抹消する事の出来なかった存在を
天皇の系譜に取り込む事は、
ヤマトタケルと同様ですね。

鳥取から大和に向かったのか、
東方から向かったのかによって
解釈が大幅に変わる事になり、
現地調査に行きたい所です。

出雲=三遠説の私としては、
東から出向いた可能性を
推したい所ではありますが、
情報が不足し過ぎていて、
何とも言えない所です。

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