『旧唐書』の逸勢

日本側の記述を見てみると、
高階真人遠成の上言により
憲宗皇帝の帰国の勅許を得て、
橘逸勢と空海は元和元年三月に
長安城を出発しています。

中国側の記述では『旧唐書』に

貞元二十年遣使来朝。
留学生橘免勢。学問僧空海。
元和元年。
日本国使判官高階真人遠成上言。
前件学生。芸業稍成。
願帰本国使請与臣同帰。従之。

と書かれ『新唐書』にも
ほぼ同じ記述があります。

しかし国から派遣された
同期の最澄の記述が無く、
本来ならこちらを優先して
書くべきではありますね。

問題になるのが元和元年が
平城天皇の大同元年なので、
平城天皇の治世となる事です。

空海は桓武天皇の勅を賜り
遣唐使となったとされますが、
平城天皇との間に何らかの
関係が存在したのでしょうか。

平城天皇は薬子の乱により、
嵯峨天皇側とゴタゴタのある
人物とされていますが、
この周辺の歴史解釈により、
全く違う空海像が浮かび上がる
可能性は非常に高いですね。

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