橘嘉智子は嵯峨天皇の后となり、
優れた功績を残したとされます。
嘉智子は橘氏の子弟のための
修学施設である「学館院」を
創設した事でも知られており、
後に橘氏が学問の家となる事に
大きな影響を及ぼしたとされます。
嵯峨野に唐僧を招いて
植林寺を建立した事でも
有名な人物とされますが、
調査に行ったら休刊日で、
門前払いされました。
ここからそこそこ歩いて
山道に入って参道を上ると
嘉智子の墓がありますが、
立ち入り禁止になっていて
参拝出来ずに散々でした。
結構な距離を歩くので、
ギリギリでの門前払いは
結構メンタルに来ます。
故人の事を書く場合は、
参拝に行き話をしてから
どうするか決めており、
書くのが微妙な所が
面倒な部分でがあります。
ただ一応は出向いたので、
取り敢えず書いておきます。
逸勢が遣唐使として渡唐し、
書と琴だけを習得しただけで
早々に帰国したとされますが、
先住民族王朝側の遣唐使なら、
優れた文化を持ち帰っていても
全く不思議はありません。
学館院も逸勢の持ち帰った
優れた学問を習得するために
作られた施政であったなら、
逸勢はパッとしないどころか、
かなりの逸物になります。
空海と共に行動したのなら
密教にも詳しかったはずで、
橘諸兄が修験道を修めた
祭祀王であったのであれば、
密教の造形が深かった事は
家系的に間違いないでしょう。
ここで密教修行の痕跡を
見つけられれば良い物の、
入れなかったのが残念で、
中々行く機会もありません。
橘逸勢の謀反の計画が
嘉智子の密告により
発覚したとされるのが
大いなる欺瞞であれば、
承和の変は想像を超えた
事変であったのでしょう。