西宮神社境内の南宮神社は、
西宮神社の摂社ではなく、
廣田神社の摂社とされます。
「梁塵秘抄」には
濱の南宮は、如意や宝珠の玉を持ち
と歌われているのですが、
神功皇后が豊浦津で得られた
廣田神社の宝物「剣珠」は、
南宮に収められていた事が
伝えられていますね。
これは現存する日本最古の
如意宝珠とされていますが、
神功皇后が三韓征伐の際に、
戦勝祈願の為に立ち寄った
住吉大神に授かったとされる
潮満珠・潮干珠とされます。
これだと甲山の真名井御前の
伝承と重なって来てしまい、
籠神社から持ち込んだ宝珠と
住吉大神に授かりったそれと、
二つは同じ物なのでしょうか。
廣田神社も甲山の麓から
現在の地に移されたので、
神呪寺の空海伝承よりも
古層に存在していた線も、
無きにしも有らずです。
浦嶋子は雄略天皇の時代に
鳳来山に行っていますが、
神功皇后はそれより前です。
ヤマトタケルは十二代の
景行天皇の子とされ、
次の十三代の仲哀天皇は
神の命を無視して殺され、
神功皇后が立っています。
ヤマトタケル=雄略天皇説と
神功皇后=卑弥呼説の双方を
正しいと仮定してみると、
宝珠伝承が双方に関わる
背景が見えて来そうです。
ヤマトタケル=倭王武説が
正しいと仮定するのなら、
乱れた国を立て直すために
卑弥呼の後を継いだ倭王が、
東西を統治した流れに
関わる事になって来ます。
倭王武の上表文が送られた
雄略22年に絡める形で、
浦嶋子や豊受大神遷宮が
語られる事を考えると、
ここで重要な何かがあった
可能性を示唆しますね。
浦島太郎伝承に二系統が
存在していたのであれば、
オリジナルは倭王武に
関わっていた可能性が、
高そうな気もします。
これが山幸彦なら玉手箱は
契約の箱となりそうですが、
オリジナルの浦島太郎伝承を
塗り替える目的があったなら、
古代王権復活に関わる要素が
見え隠れしそうですね。