朱子学者として羅山が世に出る前、
冷泉家の藤原惺窩(せいか)が
名を馳せていたとされており、
羅山より2歳も年上の朱子学者で
藤原定家の11世の孫とされます。
播磨国の細河荘で生まれますが、
若い頃から仏門に入っていて、
18歳で京都五山の一つ相国寺で
禅を修行し儒学を学んでいます。
ここで儒学の深さを知った惺窩は、
還俗して儒学を本格的に学び
朱子学を隆盛させた人物とされ、
羅山の前段階として外せません。
家康に講義を頼まれただけでなく、
仕官するよう頼まれていますが、
教育の方を重視し断っています。
若かりし羅山は議論を吹っ掛けるため、
『惺窩の解釈を質す』と書いた手紙を
送ったとされてはいるのですが、
質(ただ)すと読まれているのに
違和感を感じさせる所があります。
素直に考えるなら質問すると言う
解釈になりそうなものですが、
正すと言えば間違いを批判して
俺が正しいと言った様な印象を
与えかねない話になります。
惺窩は誠実にこれに答えたとされ、
羅山は生涯惺窩を尊敬しており、
惺窩も羅山に期待が薄れる事は無く、
若さ故の客気を危惧したとされるも
羅山は忠告を聞き入れたとされます。
よくある頭の良い少年が先生に対し
尖った事を言って追い詰める様な、
実地の苦労や悩みを経験しないで
頭だけで語る類いの小僧であった
印象を受けた人もいるのでしょうか。
ただ儒教経典には『春秋左氏伝』の様に
実地での対話が書かれた物があるので、
この辺りは誰が書き残した文章かを
探って行く必要性がありそうです。