日本の飛鳥時代は聖徳太子により
仏教が信仰されていたと言います。
聖徳太子の存在は随書倭国伝に記された
「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。」
と言う文章が根拠となっていますが、
この書と日本国内の文献の内容には
幾つもの矛盾が存在しています。
この書にはアマタリシヒコと呼ばれる
男王のシャーマンの存在が記されますが、
聖徳太子は女帝・推古天皇の摂政とされます。
他にも問題点があり深いところまで関わるので、
三遠式銅鐸の本に纏めておいたのですが、
ギリシャの研究を進めていく事で、
飛鳥時代の仏教にギリシャの影響がある
可能性が見えてきました。
飛鳥時代の仏教とはいかなるものか、
余りにも情報が少なく実情が分かっていません。
しかし、空海が唐から純密(じゅんみつ)を持ち込む前、
日本には雑密(ぞうみつ)と呼ばれる密教があり、
平安仏教とは違う形の仏教が存在していました。
密教自体は仏教でも釈迦の教えとは異なっていて、
国家鎮護の修法などは原始仏教にはありません。
雑密がどのようなもので、どこから入ってきたのでしょう。
これらの研究で飛鳥時代の日本のイメージが
全く違ったものになるでしょう。
源頼朝や徳川家康もかなりのところまで踏まえ、
三遠に関わりを守っていたようです。
飛鳥時代の国家中枢である三遠の姿と
その運営思想がどのようなものであったのかは、
現代日本が見直す価値のあるものだと感じます。