古代ギリシャと神社参拝

現代日本でも神社参拝をする人は多いですが、
古代ギリシャにも神参りがありました。

破天荒な人生を送った事で有名なアルキビアデスが、
神参りに行った時に出会ったソクラテスと
祈願について語り合った内容が、
『アルキビアデスⅡ』に記されています。

古代ギリシャは多神教であり、
ギリシャ神話と古事記も非常に似ていますが、
ここで行われた対話の内容も、
現代日本に嫌と言うほど当てはまります。

無知が人間にとって悪しきことの原因であり、
無知なまま行われた祈願は呪詛(呪い)になるとする
アルキビアデスに対してソクラテスは、
無知が常に悪ではないとしても、
「最も善きもの」について無知であれば、
どれほど他の知識を持っていても、
益は殆どなく害が多いと答えます。

デルフォイのアポロン神殿の入り口には、
「汝自身を知れ」、「度を超すなかれ」と
刻まれていたそうです。

ソクラテスとの対話は現代に生きる我々にも
大きな示唆のある内容なので、
引用から当時の雰囲気を感じてみて下さい。

神々はこうだと思われないかい、
人々が私事であれ公事であれ祈願する事を適えたり適えなかったり、
また人により適えたり適えなかったりすることがあると。
とすると、君には大いに用心が必要だと思わないかね。
自分では気づかずに善いことだと思い込み、
実際は最大の悪を祈願することにならないように。
神々は、人が祈願することは何でも進んで適えてやる気持ちで
いらっしゃるのだとすればね。
たとえばオイディプスはその息子たちが
親の財産を剣で分けるよう祈願したと言われているようなものだよ。
彼は現在身に降りかかる禍いを転じ給うよう祈願できたのに、
現在のものに加え、他にも身に禍いを招いた。
まあ、そういうわけでこれらの祈願が適えられ、
それをもとに他にもたくさんの怖ろしいことが起こったのだ。

与えられたものを無分別に受け取ったり、
僭主(せんしゅ)になることを自分から祈願するのは安全ではない。
いやしくもそのために被害を被ったり、
また全く生命を失ったりする事になるならね。
何か善い事をしているつもりで僭主の地位を長い間求め、
それを手に入れようと必死に努力したのに、
この僭主の地位ゆえに陰謀にかかり命を奪われた人たちを
我々は挙げることができるだろう。

君は覚えていないかい、自分では気づかずに、
悪いことを善いことだと思って祈願するのを避けるのに、
たいそう困惑していると言ったのを。
ならば、いいね、神様へ祈願に詣でるのは、
君には安全なことではないよ、
こういう事にもならないためにね。
つまり不敬にわたる言葉を君が言っているのをお聞きになり、
その犠牲を何か受け入れられることのないためであり、
また、もしかして君が全く思いもかけなかった結果まで
愉しむことにならないためにね。

或る者は黄金の角をつけた牛を供え、
或る者は神々に奉納品を贈物とし、
善いことだろうと悪いことだろうと構わずに
なんでも手あたりしだいに祈願する。
ゆえに彼らの不敬な言葉を口にするのをお聞きになり、
神々はそういった贅沢な祭列や犠牲などを受け入れない。
ともかく、いったい何を言うべきであり、
何を言うべきでないかを十分に警戒と考察する必要がある、
と私には思われるのだ。

まず君の魂からそれを包んでいる霞を取り除いた上で、
君は善と悪とを見分けることになるはずの手段を
適応しなければならないと私は思うよ。

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