秦の始皇帝を欺いた徐福はインドに行き
薬師如来像を持ち帰ったと伝承されています。
この周辺の記述には歴史的に矛盾が多く、
捏造の痕跡をあげればキリがないのですが、
徐福とインドに関係があったとする事実を
何らかの形で伝えるものだと仮定しましょう。
徐福の時代のインドでは釈迦の仏教ではなく、
上座仏教の説一切有部門(せついっさいうぶ)が
インド仏教の有力な勢力となっていました。
この仏教は西洋のスコラ哲学のように
対話により見識を深めていく事をし、
プラトンのイデア論に近い教義を
持っている事で有名です。
この時代のインドにギリシャの影響は
無かったとされてはいますが、
実際にはどうなのでしょうか。
現在執筆中の本にはこの周辺の情報を
調べあげて纏めている最中なのですが、
徐福とインドが関係していたとすれば、
秦の兵馬桶にギリシャ彫刻の影響が見られ、
古代日本にギリシャ神話が持ち込まれたのが
一本の線で結ばれる事になります。
徐福王朝にギリシャ神話が存在していたなら、
古事記がギリシャ神話と類似しているのも
突飛な話ではないでしょう。
もっともこの周辺の研究に関しては
『東三河の徐福伝承』に既に書いてあり、
裏付けとなる研究が幾らでも出てくるので
三遠式銅鐸の本にも書いたのですが、
それでも足りずにまだ書いている最中です。
徐福は孔子の弟子の子孫ともされますが、
儒教・仏教・ギリシャ哲学に通じていたなら、
古代日本の徐福王朝はヘレニズム文化に近い
高度な学術を元に運営されていた可能性が
非常に高いと思われます。
私が文化財を活用した地域振興で
聖地の情報のみ伝える事をしていないのは、
日本から新たな文明を創造しうるだけの
歴史の深層が見え隠れするからです。
ただ参拝して食事と買い物で終わりでなく、
関係者も聞かれた時に歴史を答える事ができ、
それに対する相応の姿勢で運営する事がなければ、
観光しても運営に対する信頼は地に落ち、
事業が継続しないものとなるリスクは
火を見るより明らかでしょう。
関係者の見識が薄く地元に対する敬意もなく、
取って着けた小手先の理念で金儲けすれば、
日本の根幹に関わる聖地としての価値がある分、
地に落ちた評価も広がるのは速いでしょう。
本人がどう考えるかは自由として、
最低でも徐福王朝の精神文化を
理解した上で運営すべきものであれば、
基礎の確立は重要な位置付けとります。
ウーブン・シティーなどの都市開発も
先行テクノロジーに立脚していますが、
三遠はトヨタの根幹にも関わるので、
世界企業にまで飛躍した根幹を生かせば
より素晴らしいものとなるでしょう。
そのための執筆は現状で私しか
出来る人はいそうもないので、
基礎を作り流れを出せるところまでは
キツくても頑張ろうと思っています。