「ええじゃないか」発祥の地

豊橋で「ええじゃないか」と聞く事が多いですが、
中身を詳しく知る機会はどれ程ありません。

一般的に「ええじゃないか」発祥の地は、
豊橋の牟呂八幡宮とされています。

飛鳥時代、文武天皇元年(697)年の
創建とされているのですが、
このブログで散々書いてきた様に、
あいも変わらず壬申の乱の後です。

大分県の宇佐神宮より八幡大神を勧請、
鎌倉時代の文治二年(1186)年に
源頼朝の家臣・佐々木左衛門尉の知行所となり、
社頭に営繕が加えられたとされます。

建久二年(1192)に鎌倉の鶴岡八幡宮から
八幡神が勧請され併祀されているので、
八幡の神を別々から勧請して一緒に祀ると言う
処世術なのかダブルのご利益があるのか
意味が良く分かりませんが特殊な事をしています。

八幡神祭祀は飽海神戸神明社でも同じですが、
メジャーな神で数多く祀られているので、
深読みをしても間違える可能性はありますね。
八幡神と言っても応神天皇と神功皇后を祀り、
神功皇后=卑弥呼の祭祀の可能性もあります。

大分県も渥美半島も安曇族の活動エリアで、
邪馬台国北九州説もありますね。
卑弥呼の鬼道の痕跡が愛知県にあるので、
神功皇后を祀る根拠とされる可能性はあり、
ある程度はしているものの更に研究が必要です。

江戸時代はじめの慶安二年(1649)に、
徳川家光が牟呂八幡宮と大西の牛頭天王社へ
四石五斗の朱印地が寄進されています。

江戸時代末期の元治二年(1865)年に
朝廷から神階の最高階位の正一位を授かっており、
ここまで優遇される理由には色々ありそうです。

幕末期の慶応三年(1867)七月十四日の朝、
牟呂八幡宮周辺に伊勢外宮のお札が降り、
「ええじゃないか」が始まります。

この民衆運動の一連の詳細を記した『留記』は、
宮司の森田光尋と光文親子が纏めたとされます。

お札降りは牟呂から東海・近畿・四国等に拡散し、
寺社のお札から仏像、食べ物、貨幣、生首、手、足にまで
降るものがエスカレートしていきます。

これに狂喜した庶民が、女装、男装、裸踊りをし、
手に柄杓(ひしゃく)を持ちながら踊り狂い、
「ええじゃないか」と叫びながら伊勢の神宮へ
「お陰参り」をする一大イベントに発展します。

この騒動は瞬く間に全国に広がり四百万人を巻き込み、
当時の日本の人口の一割程度の人が参加しました。

伊勢の外宮は花祭の本に書いてありますが、
三遠の古代史と伊勢には密接な関係があり、
外宮は伊勢参りで重要なので別で掘り下げます。

一説には東海道の御油宿(愛知県豊川市御油)に
秋葉神社の火防の札が降下したのが最初ともされますが、
こちらにしても掘り下げると色々ありますね。

他にも発祥とされる地は幾つか存在しますが、
追々記事にするかも知れません。

ええじゃないかが倒幕運動と絡められる話もあり、
反体制運動の可能性のあるものを地域振興に使うのは
中々に懐の深い市だとは思うのですが、
大して知らずに使っているだけなのでしょうか。

後で足元をすくわれないように
歴史を活用したプロモーションは
学術的な基礎部分も大事だと思います。
縄文遺跡も穴が見つかっただけで
何でこの建物になるのかを聞くと、
根拠薄弱なものもありますね。

ファジーにはファジーの強みがありますが、
強みと弱みは表裏一体でもあるので、
精通した上で使い分けて欲しいところです。

関係各位に迷惑をかける気はないのですが、
地域振興は捨ててこのテーマに取り組むので、
ほぼ私的研究の垂れ流しに近くなります。
大枠でのメリットはありそうなので、
関心のある人だけ読み進めて下さい。

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