志多羅神の目的地は石清水八幡とされますが、
『梁塵秘抄口伝集』にも志多羅神上京が記され、
天慶八年(945)年の時の事件とは違い、
長和元年(1012)は鎮西(九州)より上洛し、
この時の終着点は石清水八幡宮ではなく、
京都の北にある舶岡山だったそうです。
船岡山に到着するも既に疫神がいて、
新たに社殿を造るほどの事もないが
とにかくお祀りしたとしていますが、
素っ気ない記述で逆に裏を感じさせますね。
船岡山は京都の頭にあたる山で、
山上にはイワクラが存在するので、
古代祭祀にも関係していそうです。
志多羅の神輿の中で後半の三前は、
摂津国河辺郡の児屋寺に寄っています。
児屋寺は昆陽寺の事とされれおり、
天平五年(733)に行墓が創建し、
天平九年(737)に疱瘡が流行したとき、
行基がここの主水堂で修法したとされます。
ここは書ける事があるにはありますが、
行基について書くと長くなるのでまたの機会に。
奈良時代の九州の隼人平定に宇佐八幡が活躍し、
将門の乱では逆に八幡神が将門側についているのに
石清水八幡で将門討伐の祈りがなされ、
これが固定化して臨時祭になったとされます。
八幡神は中々に謎が多い神様のようですね。
志多羅神事件には八幡神が将門の乱の平定に
加護を与えた事が広まっていたようで、
石清水八幡への上洛の時代背景を看ると、
東国の平将門の乱に対応する形で、
西国の藤原純友の乱が関わっていそうです。
藤原純友の最終決戦の舞台が大宰府とされ、
菅原道真とも関わりそうですね。
志多羅神上洛には天神(道真)の神輿があり、
ここも掘り下げるとかなり出てきそうですが、
純友関係への参拝をする余裕がありません。
藤原純友は文献や史跡も少なく、
将門公よりも研究が難しいので、
実地聞き込み等をしないと難しいですね。
何か出てくるのは間違い無いとは思います。
九州と言えば隼人もいますが、
これも岩清水八幡宮と関係しています。
いかにも意味ありげな関係が多いので
調査したいとは思っているのですが、
郷土史と違い遠方の研究は厳しいですね。
中々に実地調査の機会が取れないので、
一応はここを掘り下げられるのですが、
Youtuber等でこのジャンルに興味のある方は、
これをヒントに調べてみては如何でしょうか。