神仏集合と八幡神

東三河の重要な神社を始めとして、
志多羅神事件に関わる石清水八幡宮、
平将門を新皇にするお告げをした巫女等に、
八幡神が関係しているのは何故でしょう。

一般的な説によれば538年に仏教が伝来し、
神と仏が同じとする神仏習合が進み、
最も早く神仏習合した神が八幡神で、
八幡大菩薩と呼ばれたそうです。

八幡大神は応神天皇を神格化した神とされ、
応神天皇の母が神功皇后とされています。

多くの歴史研究家の研究によると、
実際に東征したのは神武天皇ではなく、
応神天皇ではなかったかとされています。

神功皇后の夫である仲哀天皇は
神のお告げを無視して神に殺されますが、
半島を征服して虐殺する御告げなので、
ユダヤ教のような雰囲気があります。

神功皇后が半島に向かうと平伏したとされ、
半島にも碑文が残されてはいるのですが、
私の研究では半島に出兵したのは後の時代で、
倭の五王によってなされた可能性があります。

神功皇后は逆に半島からの侵略にあい
国が乱れたので女王を立てたとする
魏志倭人伝の卑弥呼に対応させると、
様々な辻褄があいますね。

研究した結果によれば仏教渡来は
少なくとも徐福の時代にまで遡り、
538年伝来とされる仏教は大乗仏教で、
徐福の持ち込んだ説一切有部を否定する
仏教の中でも新興勢力に属しています。

これで見ると神と仏の関係は、
一般に思われているより複雑であり、
その問題の基幹に位置するのが
八幡宮なのかも知れません。

阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされますが、
阿弥陀仏とミトラの関係も書きましたね。
ここにもゾロアスター教の影響が見えます。
色々と繋がってきますね。

源頼朝は岩清水八幡宮で祈願し、
勝利の後に鎌倉幕府を開くと
八幡神を迎えて鶴岡八幡宮とましたが、
石清水八幡宮は日本の根幹に関わわると
認識されていたのでしょうか。

卑弥呼の頃から古墳時代が続き、
壬申の乱まで継続してきたのであれば、
志多羅神は歴史から消された邪馬台国と
後に入ってきた勢力の基幹に密接に関わる
二者の祀られた神社に向かった事になり、
無意味に出向いた可能性は低いでしょう。

平将門の乱を始めとして武家の世に転換する中、
国家祭祀の基幹に関わる巨大なムーブメントが
時代の変革になんら影響を及ぼした事は
間違いないのではないでしょうか。

幕末の「ええじゃないか」もこの系譜に属し、
同じく八幡宮である牟呂八幡宮から発祥し、
幕末から明治への時代の変革に関与した事は、
想像以上の深層が横たわっていそうです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. tetsuko Takeuchi より:

    すみません。余計なことですが漢字が違うと思います。「神仏習合」「石清水八幡宮」ご確認くださいませ。ふと気になったもので。失礼しました。

    • Katsuyoshi より:

      ご指摘、有難う御座います。
      棒が一本違うだけでデュラララとデュフフフくらい変わりますから、注意しないといけませんね。