神道と「正直」

神道では「清浄」が重視される事は
広く知られている事であり、
善悪ではなく魂の美しさや汚なさが
人の判断基準となっていますね。

伝統芸能や大工などの高い美的センスには、
高度な知性を感じさせます。

初期の伊勢神道では「清浄」と共に、
『倭姫命世記』で「正直」が語られます。

神は垂るるに祈禱を以て先と為し、
冥は加ふるに正直を以て本と為す。
日月は四洲を廻り、六合を照らすといへども、
すべからく正直の頂を照らすべし

この時代の正直は人の神に対する心のあり方と
世俗的な心のあり方として用いられる場合の、
二通りの使われ方があると考えられています。

仏教でも正直の用語は用いられ、
仏陀への一途な信心を貫ぬく事に
用いられるケースがありますが、
神道五部書に用いられる正直は、
祈祷に対にして使われるようです。

信仰心と呼ばれるものは似非宗教家が
信者を騙す時にも用いられますが、
伊勢神道で用いられる信とは
どのような意味だったのでしょうか。

神明の利益を蒙ることは、
信力の厚薄に依るとなり。
(『倭姫命世記』)

神明は徳と信とを饗けたまひて、
備物を求めたまはず。
(『御鎮座本紀』)

神を祭る礼は、清浄を以て先と為し、
真の信を以て宗と為す。
(『宝基本記』)

伊勢神道は仏教の影響が指摘されますが、
倭姫命世紀には儒教用語が多く見えます。

この「正直」が儒教からの引用だとしたら、
他人に嘘をつかないと言う意味とは違ってきます。

儒教では誠といい自らを欺かない事を重視します。
目先の利害やプライド保持で責任を踏み倒さず、
都合の悪い道理を誤魔化さない事を正直とするなら、
根本的な姿勢に関わる可能性が高そうです。

中途半端にかじって見識がつくと、
上には通用しないのでスルーしつつ、
素人騙しでプライドを満たして
虎の威を借る狐で終わるケースも、
神や真理を語る人に多い気がします。

武術では天地を貫く中心線を重視しますが、
歪みなく垂直に立つ姿勢は様々な分野の基礎で、
「至誠天に通じる」と言われるように、
神に通じる根幹こそが正直なのでしょうか。

「すべからく正直の頂を照らすべし」とは
誠が神明に達する事を意味するのであれば、
伊勢神道の根本で重視されているのは、
天に通じる姿勢にこそあるのでしょう。

宗教やスピリチュアル等に良く見られる
信者を騙して私欲を満たす類いのものと、
自らの行いにより信頼を勝ち取る事は
全くと言って良い程に意味が違ってきます。

信頼を勝ち取るには道理を誤魔化さず、
根本的な姿勢で勝負する事が必要であり、
有事や責任問題に関わる状況での行為は
その人物の真価が良く表れます。

神から信頼を勝ち取るだけの姿勢が
伊勢神道で重視されてきたのであれば、
神を出汁にして私欲を満たす行為でなく、
神が加護を授けるに値する生き様こそ、
重視されてきた事だったのでしょうか。

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コメント

  1. 小山節子 より:

    ユーチューブいつも、聞いています
    勇気づけられます
    柴田倭成さん、ご存知ですか?

    • Katsuyoshi より:

      小山さん初めまして。
      柴田さんは存じ上げませんね。申し訳ございません。