武家政権への移行と伊勢神道

武家の世に変化していく過程を見ていくと、
天慶二年(939) の平将門の乱を皮切りに、
永承六年(1051)から前九年の役が起こります。

永保三年(1083)の後三年の役の後に、
平氏が天下を欲しいままにする時代となり、
壇ノ浦で源氏が勝利して奥州藤原氏を滅ぼし、
鎌倉幕府が開かれる流れとなっています。

平安時代後半の前九年の役の勝利の礼として、
石清水八幡宮から勧請して鶴岡八幡宮の本宮が
源頼義により鎌倉の地に造られています。

それから117年経った後に頼朝が大軍を率いて
鎌倉入りして最初に行ったとされているのは、
この元八幡宮に訪れ鶴岡八幡宮の地に遷し、
広大な神社を建立した事であったので、
鎌倉幕府の最優先課題とされたのでしょう。

鎌倉幕府が出来た後に伊勢から神宮を勧請し、
二大宗廟の双方が鎌倉に持ち込まれました。

鎌倉幕府が出来た後に伊勢を持ち込みましたが、
その前に石清水八幡宮も持ち込んでいたので、
朝廷に対抗できる力を確保したのでしょう。

戦国武将が神仏を信仰した事は有名ですが、
加持祈祷などで神仏に呪術的な力を求めており、
信仰のみでなく幕府を成り立たせる基幹として
神仏の呪力を重視していたのでしょうか。

鎌倉には陰陽師が関与した痕跡があり、
天海僧正の関与した江戸もまたしかりです。

義経が皇室側から送り込まれた懸念があり、
頼朝が彼を討伐した話は以前記事にしました。

前九年の役は阿倍氏の反落を鎮圧であるとされ、
平将門の乱の後の東国での大規模な反乱は、
やはり深い部分で連なっている感がありますが、
九年もかけて戦ったとされるは凄いですね。

国内で最も長期の戦争とされるのは
蝦夷との戦いで三十八年もかかった上に、
最後は和平を持ちかけて騙し討ちですから、
東国の独立を恐れて平将門を徹底的に
悪者として潰しにかかったのでしょうか。

結局は武家政権に移行する流れとなり、
江戸時代にまで続くのですが、
鎌倉時代から日本の宗教界に異変が起こり、
それまでとは違う流れが出てきます。

抑圧された先住民族の独立が
日本の深層に押し込められ続けた
根深い問題であったのが、
表に出てくる流れとなったのか、
鎌倉時代から伊勢神道が出てきます。

武家政権のイデオロギーともなった
伊勢神道の深層を探っていくと、
邪馬台国祭祀に連なる可能性を
見出だす事が出来るのですが、
頼朝と三遠の関係は別に書きます。

元寇にも伊勢神道が深く関わり、
江戸や明治維新前後にまで
歴史に影響を与えて続けていますが、
『家康の暗号』に家康と三遠の関係を
詳しく書いておきました。

太古の鬼神は悪神の汚名を着せられつつも、
この国を守護し続けているのでしょうか。

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