内宮と伊勢参り

歴代天皇で最初に伊勢に参拝したのは、
明治天皇だと言われています。

賀茂神社や石清水八幡宮への参拝は
数多く記録されてはいるものの、
なぜ伊勢への参拝はなかったのでしょう。

お伊勢参りは皇室の祖神を祀る内宮ではなく、
外宮側が主導で興したムーブメントなので、
そもそもが内宮参拝を奨励したものかは
現時点では定かではありません。

十世紀の『縁起式』は伊勢大神宮として
天照大神と相殿の神二座を合わせた
計三座の神を祀る大神宮と、
豊受大神の相殿の三座を合わせた
計四座の神を祀る度会宮があり、
両者をあわせて二所大神宮とします。

内宮の禰宜は従七位官であるのに
外宮の禰宜は従八位官とされ、
二所大神宮も外宮は内宮と比べて
低く位置付けされた事が分かります。

後に真言密教が両部神道を立ち上げ、
内宮と外宮を金剛界・胎蔵界の
両界曼陀羅に対応させる説が出され、
二社が陰陽一対の存在とされました。

内宮と外宮をキリストとヤハウエの様に
一神教的な対応をさせる説も存在しますが、
解釈が難しい問題が幾つもあります。

景教は単性説と呼ばれる様に
神と人は区別される教義を持ち、
キリストは神であって人ではないと
厳密に区別されているようですが、
外宮の提唱する伊勢神道においては、
修行により神との合一を果たせます。

外宮の御祭神である国常立尊も
古事記では根源神から格下げされ、
景教からは好ましい存在として
扱われていたのか疑問があります。

伊勢神道が隆盛したのは平安末期から
鎌倉時代周辺の社会的背景があり、
皇族と武家が武力衝突をして
武家政権へと移行した時代なので、
大きくヒエラルキーが変化した時代に
精神的支柱として求められたのでしょう。

伊勢(度会)神道の隆盛により、
外宮は内宮を凌ぐ社会的地位を
確立していく事となります。

伊勢の名自体が伊勢津彦と呼ばれる
出雲神に由来しているので、
この地名を持つ神宮への参拝は、
蝦夷地に行くのと同様の扱いがなされ、
忌避されてきたのでしょうか。

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