牟呂八幡宮参拝

ええじゃないかを書くために
牟呂八幡宮に参拝に行きました。

ええじゃないか発祥の地とされる
牟呂八幡宮のウェブサイトには、
この詳細について記してあります。

慶応3(1867)年7月14日午後4時頃、
大西の多治郞屋敷に外宮のお札が降った。
明くる日にも、
天王社の中の樹に伊雑宮のお札が降り、
さらにその晩、中村の普仙寺の秋葉山石灯籠に
内宮のお札が降った。
当時の牟呂八幡宮神主森田光尋は
庄屋や総代を集め相談した結果、
文政13(1830)年のお鍬祭に倣って実施することとなった。
18日午後4時、大西の総代がお札を持ち、
牟呂八幡宮へ向かった。
村の人たちはお揃いの衣裳で
-300年は大豊年-の古歌を歌いながら
踊りたわむれた。
牟呂八幡宮ではお鍬様をお祭りし、
神事を行い、社前に幟を立て人々には酒をふるまった。
集まった大群衆の-300年は大豊年-の声はお宮の森にこだました。
この遊び日は2夜3日の20日まで続いた。
それから1ヶ月後の8月12日、
牟呂八幡宮に秋葉山のお札と御像札が降っており、
16、17日にお祭りをすることとなった。
芝居や狂言を行い、お酒をふるまい、
境内は人で埋め尽くされた。
17日の夜、そのお札を境内の秋葉神社に納めた。

ここに見られるお札の降下は、
外宮・伊雑宮・内宮の順番ですね。
神が降らせたならともかく、
人が意図的に降らせた可能性も
今まで何人にも指摘されており、
お札の神にも意味がありそうです。

伊勢に纏わるお札の下降から始まり、
様々な神社のお札が降ってきますが、
この周辺も掘り下げると色々あります。

お鍬祭の形式で踊ったとありますが、
伊雑宮のお札が降ったのが理由とされ、
御鍬社は有名な伊雑宮の別名です。

ええじゃないかは御鍬百年祭の年にあたり、
両者の関係が指摘されていますが、
御鍬踊りが無ければええじゃないかも無く、
御鍬神に纏わる様々な謎が解ければ、
こちらも明確になる部分がありそうです。

流石にええじゃないかを起こすために
百年前から計画的に動いたのかは
定かではありませんがロマンはあります。
調べれば掘り出し物が出てくる可能性は
ゼロではないのでチャレンジしてみては。

始まりは二夜三日の祭であったものの
七日七晩の祭に発展していきますが、
花祭の原型とされるのは七日七夜の大神楽で、
江戸時代に簡略化したとされているので、
花祭の影響も混在していたのでしょうか。

牟呂八幡宮は敷地も広域で建築も素晴らしく、
地元なのに歴史の研究を始めるまでは、
寄る発想すら持ちあわせてはいませんでした。

ここもかなりの謎が秘められていそうなので、
このジャンルに関心のある方は羽田八幡宮も含め
参拝に行ってみては如何でしょうか。

「ええじゃないか」は牟呂八幡宮と羽田八幡宮が
密接に関係して展開されていきましたが、
羽田八幡宮にも歴史の謎がありそうです。

志多羅=タラシで先住民族王権に関わるなら、
王朝の存在した三遠の地で志多羅神事件に類似した
「ええじゃないか」が発祥したとされるのも、
鬼道に連なる深淵を垣間見れるでしょう

行政なりがプロモーションに力を入れれば
地域振興のメリットが大きいでしょうが、
運営主体の見識や心構えも重要ですね。
実学を重視した寺子屋が盛んだった頃は、
もっとレベルが高かったのでしょうか。

政教分離と言って行政が神社に金を落とさず、
祭の保存や神社の建て替え等の運営費などに
厳しい問題を抱えているところが多いですが、
これだけの歴史的価値が見出だせる地域なら
色々とやりようはあるので人の問題ですね。

飽海神戸神明社はブログで紹介しているせいか
参拝に行ったと言う話を聞く事がありますが、
折角遠方から参拝に来るのであれば、
他にも参拝する価値のある場所は多いです。

地元が認識を新たにして大事にする事も
重要である事は確かなのですが、
全国区で有名になってから地元で扱うのは
地方あるあるなので宣伝も必要ですね。
まあ姿勢からすると問題ありと思いますが。

成功事例が出てきたら他の地域へも波及させ、
三遠のみでなく広域な流れに繋げられれば、
メリットは多岐に渡るでしょう。
おかげ参りや伊勢踊りなども広域に渡り、
相乗効果が十分に狙えます。

そのためには一点突破で足掛かりを作った後に
波及させていくのが良いと思っていますが、
そのためにも地域が違う方達であったとしても、
情報拡散して頂き行政なりを動かせれば、
様々な恩恵が得られると思います。

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