二系統の御鍬社

御鍬祭は外宮の御師という下級の神職が
神宮の鍬山神事を模して木の枝で鍬の形を作り、
御神体として村から村へ廻し流行らせた祭とされ、
外宮のお伊勢参りの流れで解釈できそうです。

元禄ノ始ニ何地ヨリ初リテ誰ガ所為トモ無ク
鍬山ノ神事ニ用ル如キノ木鍬ヲ一ツ持テ土民等大勢踊リ、
伊勢ノ御鍬踊ト稱シテ江州邊ヨリ段々村送リニ此ノ鍬ヲ送ル、
處々二テ散錢ヲ出ス者多シ、
然ルニ共ノ錢ヲモ副へテ次ノ村へ送ルナリ、
漸々ニ日ヲ經テ尾州額へ送リ來リシニ
尾張ノ郡奉行某怪シキ事ナリトテ此ノ地ノ奉行桑山氏へ
愈ミ伊勢神宮ヨリ出タルカ卜ノ尋アリ、
神宮ニハ曾テ知ザル事ノ由ヲ返答アルニ由テ
尾州二テ彼ノ踊ヲ停メ

とどこで誰が始めたか分からないが、
大勢が木の鍬一つ持ち伊勢ノ御鍬踊称してと踊り
近江から尾張に向けて迫ってきたので、
尾張郡奉行が警戒して神宮由来か問うと、
神宮は知らないといい尾張で停止させたとされ、
内宮の関与はなかったと言及されています。

ここで終わらないのが面倒なところで、
御鍬社で祀られる神は二系統存在し、
外宮の豊受大神を祀る御鍬社もあれば、
伊雑宮の神を祀る御鍬社も存在します。

中にな内宮の神を祀る御鍬社も存在しており、
中々にカオスな様相を見せていますね。

美濃本巣郡十四条村(真正町)の
『御鍬祭諸事覚帳』(文政十年)には、
明和四年の伊雑宮から文政十年の外宮に
祭礼の流れが代わった経緯が記されます。

ここでは村の代表者が御師と相談し、
修験により湯の花などが行われた
伊雑宮の御鍬祭を止めさせて
持参した「御鍬様」を送り返させ、
外宮流の御鍬祭に切り替えたとされます。

伊雑宮と外宮の関係も簡単なものでなく
歴史的に見て面倒な話しがあって
これも掘り下げると色々ありますが、
御鍬祭は伊勢系統の祭だけではなく
修験のものもあった可能性があります。

湯の花と言えば花祭で行われる湯囃子や
外宮で行われた湯立を連想させますが、
ここにも鬼道の影が見えますね。

修験と伊雑宮との関係については
史料不足により詳細は分かりません。
国会図書館で調べたいのですが、
厚労省がコロナを風邪扱いしたのに
まだ抽選をしているようなので、
行けるか分からないのが辛いです。

どうせなら何泊かして缶詰めになって
調査に時間が費やせれば良いのですが、
地元の図書館では伊雑宮の史料などは
探すのが難しく時間も取れないので、
研究の流れが出てきて欲しいところです。

ええじゃないかだけに時間を割きたい訳でなく、
研究のための研究をしている訳でもないので、
早い内に歴史は卒業したいのですが厳しいですね。

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