神泉苑については既に記事にしましたが、
ここを御鍬祭発祥の場所とする記述が
『三河聰視録岡崎記』に残されています。
読みにくい文章だと思いますが、
こう言う地道な研究をして
分かりやすく書く努力を続けるのは
かなり大変なのが分かると思うので、
トライしてみて下さい。
御鍬祭
御鏃祭ノ儀式ハ民安全五穀成就ノ御祈禱是ナリ、
傅へ聞ニ其始り、人皇五十代桓武天皇ノ御宇
延暦十四年(759)乙亥二月朔日大内神泉苑ニ於テ行ハル、
帝王自ラ農具ヲ取テ国民安全五穀豊饒ノ御祭事在之、
其後毎年代々ノ帝王御執行アル由、
然し共世上陴リ有テ無據中絶セシ事モアリシニ、
人皇百九代後水尾院(1611-1629)ノ御宇
慶長十八年(1613)癸丑二月朔日ヨリ
伊勢大神宮ニテ執行之在由勅命ナリ、
之依正月十五日ニ至テ毎年神主十人ノ内
年番ニテ務之神主上洛シテ蒙リ勅命
伊勢山田ヨリ一里ヲ経テ西ノ方ニ御鍬山アリ、
社人数多山ヲ念ジテ榊ヲ採リ、
自然ト御鍬ノ形ニソナハル榊在之故持皈リ、
毎年二月朔日御鍬ヲ調度シ一双トナシ奉リ神主長官等集リ、
一日農業ノ真似ヲ神前ニテ執行尤心神秘ノ由、
然ルニ人皇百十六代桜町院(1735-746)ノ御宇
寛保二年(1742)春三月世上ニ行フレ之・二十六年ノ後
明和四年(1767)丁亥三月尾三遠ノ三國盛ニ行フ儀ハ
世俗二去ル戌十月尾州智多郡ノ獵師良久シク
網ノ仕合アシク依之锹請拝シテ数万ノ鰯ヲ引取シヨリ
聞伝ヱ二所々浦々祭之ニ皆心仕合ヨクコレ故
干観沢山ニ成五穀ヲノツカラ豊饒ナリ、
猶又土民ノ願ヒ不思議二成就スルコト一々不及記、
伝へ聞ニイハシト云肴其味ヒ美ナレドモ
沢山成物ユヘ人是ヲカロシム、
志多羅神上洛事件の六十八年前に、
京都の真言宗寺院である神泉苑で、
怨霊等の祟りを鎮めるために、
御霊会が行われたそうです。
この時代は疫病が流行して大勢が死亡し、
政治の陰謀のために死ぬ事となった
崇道天皇、伊予親王、橘逸勢などの
御霊を祀るようになったと言います。
橘逸勢については三遠に墓があり、
ここについても掘り下げたいのですが、
申し訳ない事に聖地参拝をしても
途上でスルーしています。
遠方から来た人は優先順位の高い所から
まわらないと時間が無くなるので、
価値を提示しないといけませんね。
伊勢山田の御鍬山での祭祀の前に
神泉宛で行われていた神事で、
帝王自ら農具をとり豊穣祈願するのは
儒教の籍田の礼に近いものがあります。
御霊会とは民衆の間で夏から秋の
悪疫の流行を払うための祈祷とされ、
或いは仏を礼し、経を説き、
或いは歌い且つ舞うと表現されます。
これは鎮花(はなしずめ)祭の
系譜に連なるものとされており、
鎮花祭も歌って舞う事で災いを除き、
悪疫が流行しないようにします。
鎮花祭と聞くと花祭を連想しますが、
花祭の舞に神聖で呪術的な意味がある
伝承が残されている事は本に書きました。
この周辺はまだ書く事があり、
資料作成も考えたのですが、
スペック的に厳しいですね。
もっと多角的に研究されていけば、
花祭の真価が遥かに高い事が
明確になると考えているので、
この様な記事を書いているのですが、
新たな切り口を数多く提唱していると
自負はしていますが如何でしょうか。
「ええじゃないか」も終わっていないのに
新しいテーマのオファーが来ているので
取り扱うべきか迷っていますが、
歴史も早い内に卒業したいところです。