常世神の後

古代日本は中央集権的な律令国家で、
壬申の乱の後に天武天皇が確立し、
後に天智系の光仁天皇によって、
再建が行われたとされています。

光仁天皇の宝亀十一年(782) 発布の禁制は
邪教を対象としたものと日本書紀に記されます。

光仁天皇紀宝亀十一年十二月、
左右京ニ勅スラク聞如ラク、
此来、無知ノ百姓巫覡ヲ構合シテ、妄ニ淫祀ヲ崇メ、
蒭狗之設符書之類百方怪ヲ作シテ、街路ニ填溢ル。
事ニ托シテ福ヲ求メ還テ厭魅ニ渉ル。
唯誠ニ朝憲ヲ畏レ不ルノミニ非ズ亦長ク妖妄ヲ養ハン。
今自リ以後厳カニ禁断ヲ加フルコトヲ宣ク。

光仁天皇の時代、宝亀十一年十二月、
左右京に出された勅(みことのり)によると、
最近、無知の百姓が、巫女と共に淫祠を崇め、
つまらぬお札や書き物など多くの怪しいものを作り、
町中に溢れ返している。
福をもたらす物として魂を奪われている。
ただ朝憲を恐れぬのみでなく長く妄想を培いかねず
ただちに厳しく禁断するよう宣された。

巫女のすすめで匈を街にかまえ、
民衆が福を求めたとされていますが、
常世神に通じる要素が見られるのであれば、
邪馬台国祭祀が残っていたのでしょうか。

お札と言うのは道教なのか神道なのか、
この時期に神道は確立されていないようで、
真言・天台密教もまだ輸入されていないので
雑密であったなら修験道でしょうか。

764年に藤原仲麻呂の乱が起こり、
政権奪取が目論まれたそうですが、
何かしらの繋がりがありそうです。

壬申の乱の勝者が天武系であり、
この光仁天皇から天智系が
皇統を継いだとされていますが、
史実と言って良いのでしょうか。

随書倭国伝に記された倭国の王は
アメタリシヒコとされており、
神功皇后もオキナガタラシヒメで、
天皇ではなくタラシヒコと呼ばれた
王系が存在していたのであれば、
天武天皇も捏造された存在であり、
支配側が律令国家を構築したのでしょう。

志多羅神事件は平安末期の945年なので
この禁制から163年も後の事となり、
この中で平安京遷都や蝦夷征伐が行われ、
現代で知られている歴史に近いものに
移行していく事となります。

光仁天皇の次が桓武天皇であるので、
この天皇の記述には歴史的作為が
多分に含まれていそうです。

平安時代に入り先住民族への抑圧は増し、
この抑圧が破られる切っ掛けとなった
平将門の乱や志多羅神事件から、
伊勢神道の隆盛に繋がっていきます。

この流れでみると伊勢神道の段階になって、
やっと先住民族祭祀が市民権を得た形となり、
律令国家体制とは違う鎌倉幕府の中で、
その力を発揮する事が出来たのでしょう。

頼朝が鬼の面を寄進した神社では、
鬼が武術の型ような動きをしていますが、
御神事としての舞も武術の型に通じ
武家政権に受け入れやすかったのか、
舞も太極拳の型のように実用的な部分があり、
プラトンの語る教育効果もあったのでしょう。

花山天皇が奥三河に入った地が
王入と呼ばれ大入に変わったとされ、
大入系の花祭は武術的な舞が見れるので、
天皇警護の武術が継承されたのか、
安倍晴明にも関わっています。

藤原仲麻呂の乱は桃太郎伝承と関わり、
壬申の乱の後も抵抗勢力が残り、
討伐が継続していた痕跡を見つけましたが、
地道な研究が繋がると感慨深いですね。

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