豊橋の吉田神社

京都の吉田神社に参拝に行ってきましたが、
豊橋にも吉田神社が存在しており、
天筒花火発祥の神社として有名です。

京都の吉田神社に由来するのか、
それよりも古い神社なのでしょうか。

社伝は持統上皇により三河行幸がなされた
大宝二年(702)の折に頓宮が設営され、
持統上皇の崩御の後に神社とされたとします。

この神社はスサノオが御祭神ですが、
平安期の疫病流行を封じるために
天治元年(1124)に神主の横地氏が
天台宗の感神院祇園社(八坂神社)から
牛頭天王(スサノオ)を勧請したそうです。

京都の吉田神社よりも古くから
吉田の名が冠されていた神社であり、
壬申の乱の後に造られたのであれば
吉田神道のルーツに関わりそうですが、
実際のところはどうなのでしょう。

『豊橋三大祭の深層』には、
この周辺について書きましたが、
日下部氏などとも関係しており、
中々に奥深いテーマです。

吉田神道を創出した吉田兼倶は
吉田の姓に改名したそうなので
偶然の可能性も高そうですが、
豊橋の吉田と関係あるのでしょうか。

飽海神戸神明社では吉田神道が
行じられていた記述があるので、
八角儀調場が大元宮と関係するのは
ほぼ間違いないと思われます。

豊橋の吉田神社も謎がある事は
色々と聞いて知っているのですが、
壬申の乱以前に連なる聖地であれば、
吉田の名にも深い意味がありそうです。

根拠もなしに強引に三遠に結びつける事を
したいと言う訳でもないのですが、
国内最大の内乱と呼ばれる壬申の乱の後、
古事記・日本書記の編纂により
日本の歴史が一本化された時期に
吉田神社が創建されたのは意味ありげです。

吉田神道が三遠の古代史を踏まえた上で
創出されたものであるのならば、
やはり鬼道が日本を支える支柱として
多大な影響力を行使してきた事になります。

まだ仮説の域は出ないとは思われますが、
研究に進展があれば記事にしようと思います。

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