伊勢の内宮と外宮の二つの神社は
現代でこそペアとして扱われますが、
外宮の名は平安末期頃から見え始め、
それ以前は度会宮と呼ばれていました。
内宮の門前町宇治と外宮の門前町山田は
幾度か争ってきた歴史があり、
文明十八年(1486)十二月には、
追い詰められた山田方が外宮に放火し、
炎上させる事態に至ったとされています。
この混乱の知らせを受けた朝廷は、
神祇権大副(神祇官次官)の吉田兼倶に
外宮の御神体の安否を確認させる事にし、
外宮の神官はこれを拒否します。
この状況に愛想を尽かした伊勢の神が
暴風雷雨を起こして各地に飛んで行き、
その地に伊勢の分社を今神明として建て、
伊勢信仰が広がっていったと言います。
延徳元年(1489)三月二十五日、
激しい風雨と雷が続く京都では、
黒雲を八つに切り裂き目映い光と共に
不思議な器物が吉田山斎場所に落下、
十月四日には天から光が降り注ぎ、
不思議な器物が多数残されます。
吉田兼倶はこの器物の判断を天皇に仰ぎ、
伊勢の御神体が吉田山斎場に移ったとして
吉田神道が伊勢をも包含する地位を
獲得していく事になります。
吉田山は神楽岡と呼ばれていたので、
神楽に関係する聖地であったのでしょうか。
吉田神社の末社に木瓜大明神が祭られており、
木瓜大明神は吉田一円の氏神とされますが、
この木瓜が東三河の日下部氏と関係する説を
『豊橋三大祭の深層』に書きました。
木瓜紋を用いた大伴氏や記氏などは
壬申の乱の時に天武側についたとされ、
天武天皇の子とされる草壁皇子は、
長きにわたる天武天皇の埋葬が終わると、
まもなく死んだ事にされています。
吉田神道も三遠の先住民族王権と
密接な関係有していた可能性があり、
飛明神が流行った時代背景を活用し、
鬼道の復権を画策したのでしょうか。
神楽岡の名も花祭の舞に関係するのか、
吉田神社で花祭を復興させれば、
時代的快挙となっても良さそうな
関連性が見え隠れしていますね。