古代日本の紙文化

中国で発見されている最古の紙は、
B.C.180-B.C.141年頃の物と推定され、
徐福渡来がB.C.220年周辺なので、
渡来以降のものが発見されていますね。

この紙の制作プロセスは現在とほぼ同じで、
優れた技術が秦帝国に存在したのでしょうか。

秦始皇帝は焚書を行ったとされており、
徐福の頃には紙文化が存在したのでしょう。

秦始皇帝を欺き日本に渡来し、
王となったと伝えられる徐福ですが、
秦帝国自体に多くの謎があります。

秦は中国の西端の小国であったのに
短期で中国制覇を為し遂げているので、
西方文化と関わりを持っていた可能性が
非常に高い事は了承出来るでしょうか。

兵馬桶にギリシャ彫刻の影響が
見てとれるとされているのも、
ここに根拠があったのであれば、
紙文化も西方から持ち込まれ、
日本にまで輸入されていそうです。

紙があれば文字も書物も存在し、
図書館があったとしても不思議はなく、
徐福の少し前にアレクサンダー大王が
大図書館を作っていた流れから、
古代ヤマトにも大図書館が存在し、
秦と同様に焚書されたのでしょうか。

徐福はインドから薬師如来像を
持ち帰ったとされていますが、
インドのアショーカ王の仏教は
世界に広まったとされています。

ここから徐福王朝の文化水準を考えると、
アレクサンドリアに比するレベルが
邪馬台国に存在した可能性があります。

西日本優位の歴史観とは全く異なり、
野蛮人扱いさえていた先住民の文化が
非常に高度であった可能性が高いなら、
地域振興もこの認識をjベースに
考えていく必要があるでしょう。

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