村櫛の縄文遺跡

浜名湖には海底遺跡が存在しますが、
浜名湖周辺の村櫛(むらくし)町からも
太田遺跡と言う縄文遺跡が発見されています。

浜松市西区西部に位置する櫛村は、
浜名湖と庄内湖に挟まれた
庄内半島の先端にあります。

明応の大地震(1498年)により起こされた
津波によって村ごと今の土地に移り住み、
村越から村櫛となった村櫛伝説がありますが、
それ以前の文献にも村櫛の名が登場します。

鎌倉時代の『吾妻鏡』に櫛村の名が登場し、
「 遠江とおとうみ の住人 村櫛三郎兵衛尉 」
と豪族の名前に由来するとも考えてられています。

御山塚と呼ばれる6~7世紀の古墳から
「 五鈴鏡(ごれいきょう )」と呼ばれる
鏡や金環等の出土から豪族の存在が確認され、
古墳時代の終わる壬申の乱以前に、
この地に勢力が存在した事が分かります。

村櫛海岸遺跡から発見された土器片は
太田遺跡よりも遥かに古いのもので、
約4000年前の製造と見られています。

『浜松市文化財分布図』はこの庄内地方に
約40カ所遺跡・旧跡が存在しているものの、
まだ発掘調査が行われていないとしています。

櫛で天照国照彦火明櫛玉饒速日を連想しますが、
村櫛で村雲とすれば花祭や伊勢外宮にまでも
関係が広がっていく事になりますね。

何でもこう言う物に飛び付くのは悪い癖ですが、
仮説の一つとしては中々に面白そうなので、
とりあえず検討してみる事にしましょう。

饒速日(ニギハヤヒ)は古事記において、
ニニギよりも前に天孫降臨をなしており、
長髄彦の妹を娶り王となったと古事記に記され、
古代の太陽神ではないかともされています。

三ヶ日の姫街道が二見街道なので、
伊勢の二見に祀られる猿田彦と関係し、
土着の太陽神である猿田彦との関係から
倭姫街道だったとする仮説を立てましたが、
長髄彦と三遠の関係が重要そうです。

実は長髄彦がこの地と関係する説は
三遠式銅鐸の本に既に書いてありますが、
出版の問題をクリアしないといけません。

長随彦の登場する神武天皇の伝承は
旧約聖書のモーゼのシナイ半島侵攻と
同じルートを辿っている事から、
実際の東征とは別物の可能性があり、
長随彦の存在も怪しいものになります。

神武東征の最大の敵とされる長随彦は、
壬申の乱で戦った天武天皇であったのか、
倭国大乱で戦った仲哀天皇がモデルなのか、
ここの辺りに面白いリンクがあります。

村櫛の名が饒速日に由来する根拠としては
データが弱すぎて度合いが低いですが、
長髄彦の王朝がこの地にあったのであれば、
饒速日も関係していたのは確かでしょう。

まだ出していない研究がありますが、
実地の問題がクリアできていないので、
現状は可能性を匂わせる程度ですね。
メルマガ読者と実地でまわっている時に
突っ込んだ話をしていたりはするので、
ハッタリをかましている訳でもありません。

本当にこの地に古代王朝が存在したなら、
浜名湖周辺に日本を支える企業が多いのも
その影響を多分に受けていそうですが、
地元企業なりが誇りを持ちどう展開するかが
歴史研究以上に重要な話になります。

時代的な感性の鋭い方達により
是非ともこの地で様々な動きを出し、
新たな時代の創出に尽力して頂けるよう
基礎固めのために活動力していますが、
これだけの歴史的価値を提供できる地域は
他にはそう見つからないと思います。

今までの日本は東か西に京がありましたが、
これからはブレずに中をいきたいですね。
国生み神話でも天の御柱を立ててまわるので、
中心軸が無ければ物事が成立しません。

西日本中心主義が日本の歴史観に根強くあり、
東は野蛮人の住む土地とされてきましたが、
三遠にも遥か縄文からの痕跡があれば、
歴史の長さからすれば西日本に劣りません。

太古からの歴史が抹消されてきましたが、
そろそろ本来の姿を取り戻しても
良い頃合いになっていると思います。

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