十世紀初頭に成立した『古今集』に
初めて猿丸大夫の名が見えますが、
平将門を討伐したとされる藤原秀郷も
同年代の人物とされています。
神田明神と人麻呂がリンクしそうな
歴史の深層を感じさせますが、
これだけでは弱いので掘り下げましょう。
藤原秀郷については『平将門の深層』に
詳しく書いておいたので重複は避けますが、
ムカデ退治の伝承などにも関わる
神話的な存在として伝承されており、
日光の二荒山信仰とも関わっています。
ここを書くとそこそこの分量になるので
詳しく知りたい方は本を読んで下されば、
武蔵野のイメージが全く変わると思います。
二荒山信仰は小野猿丸大夫の後裔を称する
人達により伝えられていたそうですが、
天武天皇の皇子との関係が示唆されるのは、
壬申の乱で抹消された古代祭祀との関係を
伝えようとしているのでしょうか。
二荒でニコウから日光となったとされますが、
二荒山神社は767年に建てられた祠が元とされ、
壬申の乱以降の話となっていますが、
太郎山周辺で古代祭祀の痕跡が発見され、
それ以前から信仰対象とされていたようです。
北関東に王国が存在した説は有名で、
テレビ番組でも放映されましたが、
北関東の古墳群は豊橋方面からの伝播で、
三遠の古代王権の皇子と絡められたのは、
この周辺に依存していそうです。
其鬼(シキ)宮が北関東に存在したと
テレビでは語られていましたが、
鬼の宮であれば鬼道が行われ、
その拠点が飽海神戸新明社地下の遺跡で、
ヤマトタケルの宮であったのが私の説です。
其鬼宮は雄略天皇(ワカタケル)が
祭祀を司ったとされていますが、
日本の記述が中国史から姿を消した
空白の四世紀に国内を統一した
倭の五王・武の可能性があります。
ここも本に書いておきましたが、
倭王・武=ヤマトタケル説は他で見ず、
武をタケルと読めばヤマト王タケルで
捻りも何もないのに誰も言わないので、
逆に不思議な感じがしています。
寺島良安氏の『和漢三才図会』巻第六十五
宇都宮大明神の項に記された内容には
「祭神 柿本人麻呂ノ霊」とあり、
ここでも人麻呂がリンクしてきます。
人麻呂について書くかどうかで
神田明神に参拝に行ったのですが、
実際に参拝すると感じるものがあり、
色々な説が出せるようになりますね。
故人について研究を発表する時に、
当人の心情も考慮し参拝に行ってから
研究をどうするか考えてみると、
思わぬ発見に繋がる事があります。
まあ実際に参拝に行ったからと言って、
絶対に正しい説が導き出せるか分からず、
間違っていても先方の責任ではないので、
自分の発言には責任を持たないといけませんね。
学術研究には知識量の問題もさる事ながら、
人としての姿勢が要求されそうです。