足利秦氏の謎の出家

鎌倉幕府で有力な地位を築いた足利義氏も、
彼の息子で足利家嫡子の足利秦氏により、
建長三年(1251)にその地位を失います。

泰氏は三十六歳の時に幕府の許可をとらず
突然の自由出家をした事が罪に問われ、
領地は没収され中央政界に復帰できず、
足利荘で余生を過ごす事になります。

鎌倉幕府内で絶大な力を持った足利氏も、
これにより大きく勢いが削がれてゆき、
幕府内での高い家格は継続しつつも、
三代も北条得宗家から妻室を迎えたのが、
北条氏の支族である佐介氏からになります。

流石にこの若くして権力もった秦氏による
多大な損失の考慮される自由出家の背後に
何らかの理由があったと勘ぐられており、
裏事情があった事とする研究も出ています

『吾妻鏡』には自由出家に関係しそうな
建長の政変と呼ばれる事件が記されています。

自由出家の三日後に鎌倉市中が騒然となり、
軽武装した人々が北条時頼の屋形に駆け集まり、
この時点では何事なく終わったものの、
この二日後に自ら自由出家を告白しています。

この十五日後に市中で謀反の噂が飛び交い、
将軍亭と時頼亭に厳重警戒態勢がひかれ、
四日後に三浦一族の残党や了行法師らが
連行された事になっています。

四ヶ月後に摂家将軍の藤原頼嗣が
時頼に鎌倉を追われた後に、
宗尊親王が将軍となったそうです。

『保暦間記』などの史料の中に、
藤原頼嗣の父頼衝や祖父九条道家に
謀叛の計画があった事が記されます。

長建の政変は様々なデータを元に、
藤原頼経・頼嗣父子と共に
宝治合戦で滅んだ三浦一族の残党が
北条氏を排除するために仕組んだ
クーデター未遂事件と言われます。

泰氏はこのクーデターに関わっており、
自由出家をしたのではないかと
仮説を立てられる事もありますが、
良好だった足利氏と北条氏との関係も、
義氏の晚年から怪い雲行きだった様です。

北条氏を倒し権力を得るための
クーデターに関与して地位を失い、
後に鎌倉幕府に戦いを挑んで滅ぼし、
北朝天皇を擁護し幕府を樹立したのが
足利氏の一連の流れとされており、
当然これに疑問が出てくる事になります。

彼は暗愚で冷酷な後醍醐天皇に翻弄され、
迷いながらも平和を求めて苦悩した
優秀な人物として描かれていますが、
これは事実を記しているのでしょうか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする