「彼の法」

後醍醐天皇の修した真言立川流は
邪悪な術として語られて来ましたが、
近年この認識を覆す複数の研究が
提出されてきています。

13世紀前半から14世紀前半にかけ、
荼枳尼天を本尊として崇拝し、
人の髑髏を本尊に性的儀式をした、
密教集団が存在したと言います。

名称不明のため宗教学研究者の彌永信美氏が
「彼(か)の法」と名付けたとされますが、
真言宗醍醐派の学僧である柴田賢龍氏は、
内三部経流と呼んだそうです。

真言立川流の心定は『受法用心集』を著し、
彼の法の儀式を説明して邪教と非難します。
これは文永五時年(1268)の出来事なので、
後醍醐天皇出生以前に立川流は邪教とは
認識されていなかった事になります。

高野山教学の大成者である宥快が、
『宝鏡鈔』で南朝最高の密教僧・文観を、
彼の死後に彼の法と結びつける事により、
立川流が邪教扱いされる事になりました。

宥快の蛮行の理由には諸説ありますが、
国内の学者が説を提唱するに止まらず、
仏出身の宗教学研究者ガエタン・ラポーも、
優れた研究を提示しています。

文観や立川流を邪道とする事に対し、
櫛田良洪氏や甲田宥吽氏などにより
問題が言及されてきたものの、
本格的に名誉が回復されたのは、
独の日本学者シュテファン・ケックらが
「彼の法」集団・真言立川流・文観派を、
別の集団とする研究を発表した後です。

「彼の法」はヒンドゥー教に由来する
邪悪なダキニ信仰が流入した後に、
独自の発展をみたものでしょうか。

国内の問題が海外の学者に解消されるのは
若干痛い部分があるとは想われますが、
それでもまだ国内における後醍醐天皇が
外道な術を用いたイメージについては、
まだまだ払拭しきれていない感があります。

私自身としては立川流は密教界内部の
権力闘争で邪教とされたのではなく、
南朝そのものの実相を隠すための
様々な工作の一環であったでろうと、
総合的に見て判断しています。

南朝で信仰されたダキニ天の実相が
どれほど優れた神であったかは、
今まで想像されてきた以上のもので、
ここにも同名の二柱の神の抗争が
存在したと見る事が出来そうです。

南朝とダキニは切れない関係であり、
ダキニを邪悪な存在とする事によって、
南朝の在り方が封印されてきたとすれば、
ダキニの実相を開示する事によって、
古代ヤマトの理解にも繋がるでしょう。

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