『青木文書』には寛成親王(長慶院)が
天皇山明燈院(豊川市御油町西沢)で降誕し、
六歳の時までここに住んでおられ、
明燈院の細川貞海和尚と共に吉野に上り、
皇太子に就任されたと記されています。
明燈院は現在の御油神社の場所にあったとされ、
御油神社は文安元年(1444) 九月二十六日に
若一王子権現を祀ったのが始まりとされます。
1444年の後南朝の状況を考えると、
ここで若一王子権現を祀り始めたのは、
南朝の重要な何かを隠す目的が
あったと見る事が出来そうですね。
和歌山の熊野神社摂社の諸王子の一位で、
十一面観音の垂迹で天照大神あるいは
ニニギ尊と同一とされた若一王子が、
長慶天皇の暗号であった可能性は、
かなりの度合いになりそうです。
十一面観音は南朝で非常に重視され、
聖天の修法にも登場しており、
花祭や修験道の根幹に関わる
謎の神とも因縁付けられています。
花祭や修験道は東三河と関係が深いのは、
私の本を読んだ方なら分るでしょうが、
南朝が先住民族の復興王朝であれば、
これらの祭祀と関係を持つ事は、
極めて当然の前の話になりますね。
御油の名にも興味深い由来があり、
本当にここが長慶天皇や三河南朝と
密接な関係を有しているのであれば、
南朝の実相を解く鍵の一つとして
重視すべき場所となるでしょう。