身代わりを祀る神社

某神社の神主さんに御祭神について
お話を聞く機会がありましたが、
こちらが教えて欲しいとの事で、
何か歯切れが悪い隠している様な
印象を受けた事がありました。

必要以上に踏み込んで聞く事は
避けた方が良い雰囲気でしたが、
三河南朝の研究においては、
南朝の皇子らを逃すため、
身代わりになった人物を祀る
神社が幾つも存在する様です。

この神社も南朝の身代わりを
祀っている可能性が高く、
色々と知ってはいるものの、
流石に話を聞き出すのは
色々な問題がある気がしました。

現代では都合の悪い事を押しつけ、
例え人類のために犠牲になっても、
踏み倒せるだけ踏み倒す感じですが、
大義のための犠牲となった人を
現代まで祀って来ているとすれば、
国家としての在り方から違いますね。

体の良い押し付けで利用するために
自己犠牲が語られる感がありますが、
神仏を身近に感じていたこの時代では、
自ら行った結果から逃れられるとは、
考えられてはいなかったのでしょう。

トカゲの尻尾切りで見殺しにして
権力を保持しようとするのでなく、
命をかけるだけの高貴な存在として
皇族が尊重されてきていたとすれば、
徳のある政治をしていたのでしょう。

南朝は皇子も修験道を修めており、
かなりの長距離移動もこなして
道のために働いていた痕跡があり、
朱子学で言う天の代理人としての
役割を全うする気概が感じられます。

現代では靖国神社も政治色が濃くなり、
参拝してもアジアの平和に貢献しない
危険な雰囲気を漂わせていますが、
初代の神主の頃はテーマパークで、
明治維新や太平洋戦争での犠牲者を
敵味方関係なく祀る世界平和の社でした。

元宮と鎮霊社への参拝は途絶え、
寂しい場所になっていますが、
参拝すると感じるものがあります。

現代は長期的なビジョンを欠落させ、
他国の問題は彼岸の火事扱いで、
目先の利害で都合の悪い事を押し付け、
ツケを踏み倒してやり逃げしようとする
傾向性が高いように見受けられます。

南朝関係者を祀る神社と靖国神社は、
戦死者を祀る事において共通ですが、
現代の在り方を考えさせられますね。

南朝の在り方を明確にしていく事は、
抑圧された深層を開放する事により、
現代にも影響を与える意義があると、
実地でまわって感じています。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする