三河吉野朝の研究

三河に南朝が拠を構えていた研究は
既に多数の文献が書き残されています。

吉野の南朝はダミーであり、
三河吉野朝こそ正当とする説は、
遥か前から提唱されています。

存在が不明瞭であった長慶天皇も
東三河に数多く痕跡が残され、
戦前から研究がなされてきました。

東三河地方の有志の人々によって
昭和19年に国府町望里の地に建てられた
長慶天皇御聖蹟伝説地の標柱は、
同年の二月十一日に長慶天皇の御陵を
京都市右京区嵯蛾角倉町の嵯峨東陵が
治定された後に警察の命令で倒され、
これらの活動も立ち消えたそうです。

豊川市に働きかけるも歴史に載せられず、
三河南朝の研究はごく一部の人達の間で
語られるだけのものとなったようです。

これだけの事なら文献の紹介をすれば
事足りる事になって楽なのですが、
何かと変わったポジションにいるので、
色合な面倒事を抱え込んでいますね。

南朝の痕跡を探ると現代にまで通じるので、
色々と難しい問題も存在しているのが
執筆を躊躇させる部分があります。

南朝天皇を守るために身代わりになった者や
今まで関係者が大事に守り抜いて来た事などを、
暇潰しのコンテンツ消費と同系に扱ったり、
興味本位で現地に観光に行ったりする等は、
当事者の心情を考えると良いとも思えません。

天皇家に関わるので信仰上の問題などがあり、
何らかの信仰を強要する気も全くありませんが、
以前は朝廷や幕府が風水を考慮した都市開発をし、
聖地として保護されてきたのに管理が破棄され、
酷い有り様になっている所などがあります。

長慶天皇の古墳とされる物も道路工事で崩され、
上手く活用すればどれだけのメリットを
日本に引き出す事が出来たでのしょうか。

一部の目先の利害で破壊し責任を取らず、
後の世代にツケを押し付けるのは、
理性ある大人のやる事ではないでしょう。

現代で当然と思われている事も昔に根拠があり、
悪影響を及ぼし続けている問題等に対しては、
歴史研究がこれを解消する術となりそうです。

南北朝は日本の歴史の重要な分岐点であり、
この後の室町時代から現代に続く文化が
形成されてきたと言われているので、
我々が当然と思っている事の多くが、
この時代に形成された事になります。

とすれば今後のビジョンを考える上において、
ここでの問題を解消せず潜在的に抱え込めば、
薄い対応しか出てこない可能性が高いでしょう。

このジャンルで権威になる事ではなく、
ここから新たな研究の流れとそれに付随した
様々な動きが出てくる事こそ執筆する意義で、
現状、私しか見当たらないのが問題ですね。

個人的にもこのように類いの問題は、
早い内に卒業したいと思ってはいますが、
時代的に必須なのは間違いないので、
敢えて火中の栗を拾っています。

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